「右は青、青は左、左は黄、黄は右」

白金にある山本現代で小林耕平の個展「右は青、青は左、左は黄、黄は右」を観る。東京近美の「ヴィデオを待ちながら」にも小林の作品が出品されていたのだが、その時は60〜70年代の伝説的なヴィデオ作品群に凄まじく圧倒されていて、しかも小林の作品は最後の方にかかっていたので脳内オーバーヒートと気力体力消耗の為、まともに向き合えなかった感があった。それでも一応、小林の映像作品を眺めていたのだが、何のことかわからないままだった。だが、オーバーヒートされた脳内のわずかに残された平常スペースのどこかに、小林の作品に対する僕の意識と感覚がかろうじてひっかかっていた。

それから半年のあいだ沈殿していたそのひっかかり感が、今回の山本現代での個展をまえにして再び浮上してきたのである。新興住宅地らしき場所の一角にある憩いのスペースだけがずっと映っているのだが、底なし沼に足を踏み入れてしまったように面白くもないその風景の映像から逃れられなくなってしまった。自然の格好をした人工風景のなかに小川、岩、植木、小径、そして背景に家々が並んでいる。よくみてみるとその風景に不相応な物があっちこっちに無造作に置かれている。タオル、植木用鋏、黒テープで丸められた新聞紙(?)、ペットボトル、ビニールテープ、クッションなど。作家本人らしき人物が画面内に唐突に現れ、そして何回も右往左往しながらカメラを意識したうえでなのか、無意識のままなのか、曖昧な感じでそれらの日常生活的物体をいじったり、動かしたり、別の場所に移動したりする。しまいには自転車に乗ってひょうひょうと通り過ぎていく。最初は「何なんだ?」という不条理に対する戸惑いの印象が現れるのだが、偶然(恣意)と必然(計算)の両方を同時にとらえようとするカメラの動きが、次第にその印象を瓦解していく。「ヴィデオを待ちながら」の時の作品も今回と同じような感じだったが、断続的な造りだったので異化された風景という感じまでだった。だが、今回はその時には見えてこなかったものが持続的な撮影によって作品のパースペクティブな拡がりによって一層見えてくる。パン、ズームアップ、ズームバック、固定ショットといったカメラの基本的(初歩的)動作によって、偶然と必然、風景と物体、運動と静止、そして登場する人物と撮影者の様々な関係性が重なり合っていく。このような重層的な連なりは現在我々が生きている世界の構造のミクロ版でもあるかのようだ。こんな味気のない日常的風景や訳がわからない行為でもカメラへの付き合い方次第によって豊かな世界が現れてくるんだという驚きをもつことができたのはすごく良かった。「わからなさ」というのは感覚の揺さぶりであり、未知の世界への入口になるのではないかと私は思うのである。