『お願い、静かに』

柔らかな中間色とでもいえるような淡い画調に施された表層のうえを子供たちのやや消極的な表情が純粋無垢なまま浮遊している。自分には聞こえない教師たちの話し声が教室や体育館の外部からのつながりを持たないドメスティックな空間を自由自在に行き来するなか、子供たちは話し声の発生源である大人たちの口元に視線を集中しようと試みたりするが、やがて分かったような分からないような状況から逃れるようにして自身と同じ境遇の者たちと視線を交わし合う。多少の戸惑いがちらちらと覗かせたりはするが、みずからこれ以上の困惑をつくることなく、今現在起こっている事象事物の全てを受け入れようとする耳の聞こえない子供たちは、ときおり幸福な表情を見せたりもする。音楽の授業でろう児が順番にオルガンの本体に顔の側面を接触して音の振動を直接感じるシーンには知覚することの純然な感動がある。そんなろうの子供たちに終始接しあまたの言葉を投げかける者たちの姿形は画面になかなか出てこない。たまに画面の表層に映っていたりはするが、常に子供たちの視線が集まるところにいるにもかかわらず、空気のような存在感のままである。画面外から話し声だけ(僕にとっては字幕の文字)が抽出され、非実体的な表象そのものだけとなった声にからめとられるろう児たちの繊細さと大胆さが入り交じった顔や表情が、ひとつひとつ丹念に描き出されている。声の持ち主は言うまでもなくろう児にとっての大人の先生たちではあるが、ろう児たちを映し出す画面に他者の声だけが遊離している描写は、ろうの子供に対する大人のモデルの喪失と不在が立ち現れている。ろうの大人を知らないろう児たちは一番身近にいる同じ仲間や一つ二つ上の先輩たち(あるいは後輩たち)と親密な関係を結ぶべく、発声一辺倒の空間から開け放たれた野外やひとつの濃密な生活空間を有する寄宿舎へ移動していく。樹木に囲まれた広場での焚き火では陽炎の向こうでデフォルメされた手話が繰り広げられ、食堂のテーブルの上ではポーランドウクライナのサッカー観戦について、男の子と女の子が政治的次元を匂わせるところまで手話による議論がエスカレートする。口話習得を中心に置くろう学校の教室とろう者同士が自らの言葉として手話を使う寄宿舎(ろう学校以外の空間)の二つの対照的な世界が並置されているが、二分化している印象はあまりなく、声を発する先生や寮母と手話を使うろうの子供たちがそれぞれ二つの世界を分かつことなく自然な感じで行き来している。状況に身を任せたり、流れるまま受動的に生きるのとも違う感じであって、聴者とろう者には二つの世界が存在していることを揺るぎない事実として受けつつ、そのあいだにある境界には茫漠とした不確実性がどこまでも漂っていることを子供たちも大人たちも直観/直感している。手話と話し声という視覚と聴覚の異なる感覚、異なる文化が出来(しゅったい)する以前の言語的あるいは身体的原風景がろうの子供たちの表情や運動を通して浮かび上がってくるような珠玉の短篇作品であった(ラストのダンスの唐突さや不可解さは免れえないが)。ポーランド映画祭2018上映プログラム「ポーランドの女性監督たち・短篇3作品」の上映作品、『お願い、静かに』(監督:水谷江里)。
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