『緑色の髪の少年』

2018年の締めくくりに(といっても数本しか観れてないが)、ジョゼフ・ロージーの『緑色の髪の少年』(1948)を観る。この映画でハリウッドデビューを果たしたロージーは、のちに当時アメリカで吹き荒れていた赤狩りを逃れて、イギリスへの亡命を余儀なくされることになる。戦災孤児を主人公とし、オープニングタイトルからしても『緑色の髪の少年』は児童教育映画の体を成しているようにも受け取れるが、高度かつ倫理的な寓話手法を用いたれっきとした反戦映画であり、今の時代にはなかなか見られない思索的な懐の深さがストーリーや画面の隅々まで染み渡っている。警察に保護された丸坊主のピーターは頑なに身分を明かさず、精神科医の巧みな話術とハンバーガーにほだされて、自らの生い立ちを語り始める出だしのフラッシュバックの流麗な運動には見る見るうちに吸い込まれてしまう。登場人物の顔を映さず身体の動作だけをポイント的に切りつなぎし、親族をたらい回しにされた数々の移転先の建物のファサードを次々と連続表示する無駄のないテンポとセンスの良さ(ドアが勝手に開くシーンは古典的ながらもたまげてしまった)。最後に行き着いた“おじいさん”こと遠縁の叔父と出会い始めた時のエピソードのシーンでは、楽屋での出来事が何故か舞台の上で行われ、唐突にミュージカルが繰り広げられる。おじいさんが著名な舞台役者である設定をとことん利用し、ところかまわずファンタスティックな世界へ飛躍してしまうのも虚構の映画空間ならではのことだろう。フラッシュバックの荒唐無稽さはピーターの髪が一夜にして緑色に変わってしまう、この映画のターニングポイントの前段階で起こるべくして起こった表象の群がりなのだ。手品師でもあるおじいさんは希望の色は緑色だと言いのけ、「朝になったら驚くことがあるぞ」と戦争に怯えるピーターの気持ちをほぐそうとした結果、本当にそうなってしまう。希望のメタファーとしての緑色は社会のなかでは孤立した絶望の色へとたやすく転変する(ジャーナリストの安田氏への自己責任論バッシングを彷彿とさせる)。だが、ピーターは異端者として社会から除け者にされながらも、森の中で出会った幻影の戦災孤児たちに言われた崇高な忠告によって使命を全うすべく、街の人々に戦争の惨禍を説いて回る(森のなかで泣き倒れたピーターの髪の緑色と野草の緑色が同化する時のハッとするような美しさ)。運命の結果がどのようになろうとも、ピーターはそれによって芽生えた信念を最後まで曲げることなくさまよい、あるいは悲しみの果てに行き着く。ロージーは幼げな少年にこれでもかというくらい悲惨な宿命を与え続ける。だが、それと同時にピーターの周りに包容力のあるまっとうな大人たちを次から次へと置いている。悲惨さと陽気さとファンタジーがない交ぜになったストーリーには、精神において優れた人物が映画の内部にも外部にも必要不可欠なのだ。大人対子供の図式を超えた精神的に等価な関係をここまで描ける数少ない映画監督のひとりがジョゼフ・ロージーであり、蓮實重彦がセレクションするハリウッドB級映画の世界にはそのような映画人が数多くいたのであろう。
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