絵と、/ 千葉正也

ビルの地下にあるgallery aMの縦に奥行きのある空間には、いくつかの四角柱が両壁に沿うようにして並立している。入り口から奥に向かってのスペースでは、その四角柱によってかろうじて2つの空間に分けられる感じだ。それぞれの空間に設営された厚いベニヤ板を置いた頑丈な台の上に、手前の2本、奥の2本の大きな鉢植えの木が載っている。天井まで届く場違いな観賞用植木には、当作家である千葉以外の作家の作品が飾られている。手前の木には黒いビニール袋を用いた作品やその記録写真などがあり、奥の木には額縁に入った小さな絵が何枚か木の上部辺りに吊るされている。その隣りにはそれらを見る為の脚立がでんと置いてある。奥にあるドアの外に出ると外階段に鉢植えの木がやはりあって、枝に掛かっている小さなモニターには乗用車の車内と窓外のありふれた風景の映像が流れている。千葉の知人によるさまざまな作品はほとんど樹上にあって、観る者は見上げたり、立ち止まるよりも角度によって観る位置をずらしたり、脚立に登ったりする。一作家の絵画展示を見にくるつもりだった意識と身体がそうせざるをえなくなったときの身体感覚には、重い扉を開けるようなもどかしさや多少の戸惑いと労苦が漸次的に発生する。他にもギャラリー内の所々に椅子、双眼鏡、ヘッドホンがあるのだが、それらの事象事物には全てギャラリーの壁に掛かっている千葉が制作した絵画作品の画面に書かれて(描かれて)ある英語の指示文と矢印の絵画的記号ともいえる人差し指の絵と直接結びついている。例えば、椅子の近くには「You can sit down on this chair」、脚立の近くには「You  can use this ladder to see the work」の文字が書かれた(描かれた)絵画が掛かっている。先程のカッコ付きから気付かれていると思うが、それらの指示文は単なる文字として書かれているのではなく、千葉自身が作ったオブジェとしてのボードなどに描かれてある文字を丁寧にキャンバスの画面に模写した文字として描かれている(ここでは〈書かれて〉が消滅し、〈描かれて〉の二重化が発生する)。それとセットになった人差し指の絵も各作品ごとにそれぞれ趣向を凝らしている。絵画的に翻訳された指示文に従って観る者が行為を起こすとき、文字を描いた指示者(千葉)に促されているというよりも、絵画そのもの、つまりタブローに張り付いた表象イメージに促されているような感覚に襲われる。表象イメージは指示者であるはずの作家によって描かれているのだが、作家の存在と作品の表象イメージの関連性はここでは遮断され、表象イメージの背後には空洞としかいいようのない状態があり、観る者はフィルターと化した絵画のみによって動かされている。千葉の絵画は普段の感覚を脱臼させるような奇妙なモチーフが組み立てられた対象物(シュルレアリスム)と作家自身の高度な模写技術(イリュージョン)に支えられているので、絵画作品の自律性と強度によって一枚のタブローに真正面から向き合うことが出来る。だが、そのようなタブローの表層にある独自のイメージに指示性や指向性の表象が現れたときに、観る者は表層次元を超えたところの得体の知れない感覚を持ったまま、宙ぶらりんな状況で堂々めぐりをせざるを得なくなるのだ。