ジュリアン・オピー

 東京オペラシティアートギャラリーで「ジュリアン・オピー」展を観る。僕が美大生だった頃は、YBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)の登場が世界中の美術界の話題を席捲していた。60年代生まれのダミアン・ハーストやダグラス・ゴードンらの(当時の)若いアーティストたちよりちょっと上の兄貴分といった立ち位置にジュリアン・オピーの名が存在していたことはおぼろげに記憶している(YBAのなかではギャリー・ヒュームがオピーの系譜を連なっていたように思う)。その頃のオピーは中間色ではあるが、見ようによってはカラフルな色とりどりの積み木を拡大したオブジェを制作していたのだが、YBA系アーティストの勢いに陰りが見え始め、ダミアン・ハーストの1人勝ちが顕在化するなか、オピーは独自の路線でグラフィックデザインと絵画のハイブリッド化を加速し、欧米のアートマーケットで人気アーティストのひとりに連ねるようになる。その頃から黒の太い輪郭線を強調し、主に点と線というミニマルな視覚言語で現代的な人物や無機質な風景などを構成し始めている。今回の展示も現代的な人物がモチーフのメインになっているが、それらの全ては全身像で顔部分には目鼻口の部分パーツを排除し、様々な髪形をつけた丸の顔型に統一されている。そのような全身像が展開されるひとつ前は、やはり現代的な人物像の肩から上にかけた上半身の構図が数多く制作されていて、当然顔部分も画面の中心に大きく描かれているのだが、目の部分が白人から黒人、男性から女性、子供から大人といった人物の様々な区分を軽々と超越して、全てが黒の点で統一された大胆な表現には、度肝を抜かれたものである。と同時に、黒の点という均一的な表現が、新自由主義的な意味でのグローバル化と新しい感性としての人間関係のあり方のあいだでどのようなイメージとして解釈されていくのか、現代におけるイメージについての思考に大いなる刺激を与えてくれる。世界のどの都市にも見られる普遍的な人物をミニマルな描写表現で等身大のサイズからギャラリーの壁面を天井まで覆い尽くす巨大サイズまで自由自在に伸縮し、LEDスクリーンを用いたアニメーションによって右から左に流れる単一な運動をループし、様々なジャンルを軽やかに横断する屈託の無い表面による表面のイメージが徹底化されている。等身大で普遍的なイメージには現代に生きる同じ感覚を共有できそうではあるが、その感覚の表層には安易には近づかないといった警戒心がどこかでふいと出現したりもする。ジュリアン・オピーの簡略化した明快な作品には、現代の高度情報資本主義を綱渡りのように危ういバランスで何とか毎日生き延びている都市生活者の一瞬の輝き、そして普遍的な輝きを最小限にして最大限に発しているのである。