「表現の不自由展・その後」

 あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現と不自由展・その後」は政治的圧力や脅迫によって中止に追い込まれた。慰安婦をモデルにした『平和の少女像』の作品が最大のターゲットになったのは周知のとおりである。この企画はタイトルからもわかるように、2015年に東京のギャラリー古藤で開催された「表現と不自由展」が企画のルーツになっている。主に国内で検閲や規制などの圧力を受けた美術作品を集めた展示であり、芸術監督を務めるジャーナリスト・津田大介氏によって、さらにバージョンアップしている。政治的なテーマを扱うデリケートな作品が多く、企画展の実行委員会の間で様々な議論が交わされ、展示空間の安全確保に最大の課題を置いただろうことは容易に想像がつく。それを踏まえて言うが、「表現と不自由展・その後」は断じて中止にすべきではなかったと僕は思う。津田氏の決断は認識の甘さというよりも表現の自由に対する覚悟が足りなかったように感じざるをえない。あいちトリエンナーレ2019に参加している海外作家の展示辞退が相次いでいる(国内作家はどうなっているんだろうか?)。アーティストにとって最大の正義は表現の自由であり、作品の内容は二の次でしかない。憲法21条にある「表現の自由」には見る自由も含まれており、作品を見ないことには肯定も否定もできないのであり、作品について自由に議論する機会や権利が権力者とレイシストにいともたやすく蹂躙されてしまった。

 個人的には記事の写真やニュース映像を見る限り、『平和の少女像』の作品にある慰安婦像をほとんど借用した造形表現については可も不可もなしとの印象を抱いているのだけれど、少女像の隣に置いてある空席の椅子に座ってみたら、自分の内面にある様々な感性がどのように動き出すのだろうかという興味はある。「表現と不自由展・その後」の参加作家は16組だが、『平和の少女像』の他に大浦信行の天皇をコラージュした作品、白川昌生の『群馬県朝鮮人強制連行追悼碑』、岡本光博の米軍を風刺したグラフィティなど政治的意識(政治的立場)を明示的に表現した作品がある一方、同じく政治的意識をベースにしつつも絵画制度や作家の個人的体験の文脈に移植し、あるいは脱政治的な視点を絡ませて複雑化してみせるようないわゆる現代美術的な手法を用いた白黒ではなくグレーな作品(とそのアーティストのこれまでの表現からある程度想定してみる)も同展示されている。大小にかかわらず政治的意識のベクトルが異なるそれぞれの作品が「検閲や規制のために展示が出来なくなった」という共通点のみによって同じ会場で一緒に展示されていることのユニークさを「表現と不自由点・その後」は持っていた可能性は高いと思うのである。こう書いていくと、今はなき展示を観に行ってみたい欲望がふつふつと出てくる。あいちトリエンナーレ2019は10月14日まで開催されているのだから「表現と不自由展・その後」の展示再開は行われるべきである。中止に追い込んだ言論テロをこのまま許せば、歴史修正主義レイシズムがますます幅をきかせることになり、言論の自由が機能しない全体主義が急速に日本社会を覆う危機感が今マジやばい。と書き終えたところ、神奈川県の黒岩知事が「表現の不自由展・その後」に関し、「県内で同じことがあれば絶対に開催を認めない」と発言したニュースが。来年の横浜トリエンナーレの参加作家(主に海外作家)は激減するかもしれないね。