『フォードvsフェラーリ』

 マット・デイモン演じる元レーサーでフォードから途方もない依頼を受けるカーデザイナー、キャロル・シェルビーがル・マン24時間耐久レースのレーサーとしてスカウトしたケン・マイルズは気性の激しい人物として描かれている。その一方、口を半開きにして間の抜けた表情をしたり、上半身をクネクネしながら身振りをする子供染みた印象を発散するその姿には、昔に観たスクリーンのなかにある面影のようなものを感じたので、それは何だろう?と鑑賞後調べてみたらクリスチャン・ベイルだったのは良いとして(僕はいつも観る前にはほんの少ししか予備知識を持たない)、さらにフィルモグラフィーを見たらその面影は確かな記憶に変わった。13歳で主演デビューした『太陽の帝国』(スティーブン・スピルバーグ・1987年)のジェイミーそのものだったのだ。社会に溶け込む大人としての振る舞いが欠落したケン・マイルズの破天荒な性格を演じる際、必然的に現れてくる少年性がクリスチャン・ベイル演じる同一人物の身体性によって過去の映画の記憶が蘇ってくる。それも映画鑑賞の醍醐味のひとつであろう。映画とスターの表象を通した相互関係があり、スターのイメージは観客の映画経験の深層にまで投影している。キャロル・シェルビーはケン・マイルズよりは多少常識的だが、死者が出るくらい過酷なル・マンを制したことのある元レーサーらしく大胆不敵な人物であり、その役柄を演じるマット・デイモンはもう一人のスターとしてどの場面においても才能を遺憾なく発揮している。フォードの上層部、ケン・マイルズの妻と息子、そしてケン・マイルズへのそれぞれの違った接し方が絶妙だ。ケンとキャロルあるいはベイルとデイモンの男同士のぶつかり合いは現代(映画)に似つかわしくないほど直線的な情熱さが溢れていて、僕は根拠なく羨望心だけがエスカレートしてくる。フォードのライバルとなるフェラーリはフォードからの買収話を蹴ってからは悪役のポジションに置かれてしまった感じであるが、フォード側も内部で副社長が2人の仕事の邪魔をしたり、レース中に企業のエゴをゴリ押そうとする。敵と味方の関係を一転二転とひねった先にはレーサーと元レーサーの勝利への挑戦と冒険だけが男同士の熱量の上昇につれて純粋化されていく。純粋さの面でいえば、効率的大量生産をするフォードでさえレースカーに限っては職人がひとつひとつ作っていることをフェラーリは最初からそれしかやっていないことをこの映画は忠実に描いている。フェラーリはフォードに負けてしまうのだが、クライマックスの後、エンツォ・フェラーリは味方側に裏切られたケン・マイルズと一瞥し同じ敗北者としての一礼をする。そのシーンでは敵同士ながらも(主に自動車の世界に対しての)同じ価値観を共有する、キャロルのとはまた違った男同士の絆というものを瞬時に美しく撮っている。そして何よりもレース場面の限界を超えていくような躍動感と雨が降る真夜中の事象事物の輪郭がすべて消えかかった幻想的な光景がストーリーのターニング・ポイントになるシーンと織り交ぜるようにアクセントをメタ的に効かせている。その後に悲劇が訪れるのだが、いずれその時がくるだろうという予感が最初から映画の摂理として包含されているのだ。様々なジャンルを自由に横断するジェームズ・マンゴールド監督は映画におけるエンターテインメントの本質に現代のどの監督よりも一番近づいていると思う。