東松照明 「プラスチックス」

 南麻布のMISA SHIN GALLERYへ東松照明の写真展を観に行く。展示タイトルは『プラスチックス』。3月に鑑賞した砂守勝巳の写真展で展示スペースを歩き回っている間、どういうわけか頭の片隅に東松照明のことが浮かんでは消えたりとずっとチラついていた。東松の写真は展覧会など行ったことはなく、20代の頃、古本屋で『太陽の鉛筆』と『長崎〈11:02〉』の写真集をパラパラとめくったぐらいしか記憶が希薄なはずなのだが、例えばひと昔、森山大道とか中平卓馬の写真に一時期ハマっていた時にも東松の名前が僕の頭の中を何回かよぎっていたことは今になってもそのような奇妙な感覚だけは思い出すことができる。実は森山や中平より、ラリー・クラークにずっと思い入れが強くあったのだけれど、クラークの写真を観ている時は、東松の影は微塵も出てこない。東松の存在とは、日本人(の写真家)が写真による表現をするうえでどうしても避けて通れないような得体の知れない巨大な何ものかなのかもしれない。日本人の精神的な何かと言い換えてもよい。印刷物の東松しか記憶がおぼろげな僕の中に東松の分身が寄生し「俺の写真をちゃんと観に来いよ」と呪文のように囁き続けているのではないかと勝手な妄想を抱いている。砂守の写真が導線となって今回の展示があることを知ったとき、東松の写真に対するうやむやな距離感にケリをつけなくてはと意味不明にも近い自意識に駆られて、緊急事態宣言が解除したあかつきに南麻布のギャラリーへ自然と足が向かったような気がする。

 これまでに東松の写真は社会的な対象をテーマとした白黒の写真しか見てこなかったと思うが(もしかしたらカラー写真も混ざっていたかもしれないが、白黒のイメージしか思い浮かばない)、『プラスチックス』のカラー写真を実際に見てみると、色の有無による表層の違いを受けることはそんなになかったような印象ではあった。砂浜に漂着した人工物のゴミは社会的なモチーフにはなり得るけれど、東松の対象への眼差しは人間を中心に置いた、その背景に広がる漠然とした社会そのものから、人間の痕跡に浮かび上がる人間の不在、人間社会(人間世界)の先にある別次元へと移行していったのではないかと思わせるようなイメージの飛躍が東松のプロセスを知らない僕の眼に映っていた。『プラスチックス』の写真は、足元に広がる砂浜の地面に対してレンズの向きがほぼ垂直になっている。(僕が見てきた範囲での)白黒の写真は対象への角度、遠近感を自由に変えつつ大胆な構図で撮影している感じであるが、砂浜のカラー写真は見下ろすという形でアングルを固定し構図をパターン化している。ギャラリーのプレスリリースによると、1986年に東松は心臓のバイパスの手術を受けており、その時期に九十九里浜でこのような写真を撮ったとのことである。以前より自由にカメラを持つことがままならなくなった東松は不自由という身体感覚を抱えながら砂浜のゴミをみつめていたと思うが、そのゴミがただのモノと化し、されるがままに水分を含んだ黒い砂の上で小さな宇宙空間を構成していることの神秘性に触れ合った瞬間がカラープリントの一つ一つに凝固されている。見下ろして撮影する手法は周りの風景からシャットアウトし、視野だけでなく意識までがその面しか見えなくなる。見下ろしたフラットな空間に点々と浮かび上がるゴミのつやが消えた無味乾燥な色が美しいと感じたのであろう。長年にわたって波に揉まれたり紫外線を浴びたりして、経年劣化しているはずの色が東松の手によって鮮やかなイメージを(再)獲得している。様々な色を持ったプラスチックのゴミは木屑や貝殻などの自然物のゴミと共生するようにして散乱したり、寄せ合ったりして、足元にそれぞれの物語や世界を繰り広げている。赤いプラスチックボトルと白い骨がむき出しにされた鳥の死骸の対照的な構図には人工物と自然物の残酷な関係が現れている。鳥の死骸が少しずつ分解しながら自然の中に消滅していく予兆を思わせるのに対して、その隣でプラスチックボトルの赤は女性の唇に塗られた口紅のように観る者を惑わせながら不変の存在として不気味なくらいに輝いている。人間と機械の間で生まれた人工物は現実世界に溢れるモノであるはずなのだが、写真に写る砂浜のそれらはそのようには見えない。人間の感覚から遠く離れた別世界のモノが不意と砂浜に出現したとしか思えないような神秘的な距離を感じる。もしかしたら鳥はその禁断の隙間を覗いてしまったがゆえに赤いプラスチックボトルに殺されてしまったのかもしれない。言うまでもなくその場を自動的にシャッターしたカメラも共犯者である。心臓のバイパス手術を受けた東松が身体の中にある人工物の存在によって、人工物/自然物、死/生のインターフェイスを強く意識していたであろうことは、同じくインターフェイスの空間である砂浜(東松)に導かれて撮影された稀有なカラーイメージがそれぞれ物語っている。