戯曲『三文オペラ』

 演劇に革新をもたらした劇作家として知られるベケットブレヒトは、名前の語感が似ているのかわからないけれど、演劇に疎い僕のなかで両者の区別があいまいになることがたまに起こる(僕だけか)。その際、ベケットと言えば、『ゴドーを待ちながら』の作者なのだと再認識するのだけれど、いっぽうのブレヒトにかんしては「異化効果」の言葉を思いつくくらいで、それ以外のことは何も知らない(「異化効果」もいまいちよくわかっていない)。その事実に最近気づいたということで、ブレヒトの代表作品と言われる『三文オペラ』の戯曲を読んでみることにした。全3幕9景の構成になっているが、その合間には、冒頭の匕首マックのモリタートをはじめ、様々なソングが挿入されている。ソングに入る前の舞台上の状況の説明文がお決まりのように出てくる。〈ソングのための照明。金色の光。バトンに吊るした三つのライトが下りてくる。パネルに「〇〇〇〇」〉。何故かわからないが、このかぎ括弧に入ったト書きの淡白とした繰り返しがクセになる。身体器官的に音楽を聴く経験を得ることができない僕にとって、音楽劇の戯曲を読むことは音の質感やリズムの記憶に結びつくことなく、文字そのものだけをなぞることに特化せざるをえない。ブレヒトの音楽劇は芝居とソングを交互に入れ替えすることで、反復性のある表現形式が生起してくると思われるのだが、文字だけを追う僕にとっては、ソングの歌詞世界を想像するよりは状況を説明するト書きのほうへ僕自身の身体感覚を擦り寄せてしまう。戯曲を読むときは無意識のうちに台詞や歌詞よりト書きを上位に置いているのかもしれない。しかしながら、そのト書きは各場面の台詞によるダイアローグ的シチュエーションと情感をのせて観賞者に響かせるモノローグ的ソング(なかにはデュエットもあるが)をつなぐ境界領域(真空状態)にあることで、事物と空間そのものがより剥き出しにされる実在的状況として、登場人物の台詞とソングの歌詞に連なってブレヒトの思想に触れる文字言葉として読むことができる。ブレヒトのト書きはただのト書きではない。場面転換における自然さや滑らかさではなく、バサっとパネルとライトを用意したような投げやり感が文字の枠組みを通り越して伝わってくる。その投げやり感が猥褻さのエネルギーに満ち溢れる台詞や唐突で強引な魅力を発散するソングに反映し合っているが、劇の流れを中断するリアルな即物的状況にもなっている。実際、『三文オペラ』の当時の上演は無計画のやっつけ仕事だったらしい。原作である、200年前のジョン・ゲイの音楽劇『乞食オペラ』を踏襲し、世界恐慌ヒトラー政権の前兆によって社会に不穏な空気が流れるなかで生まれた『三文オペラ』に描かれる時代精神は今の時代の閉塞した空気感につながっている。ト書きの殺風景さは新自由主義によって進行していく断絶社会や世界の分断化の表象にとってかわる。『三文オペラ』では、男性である主人公のメッキースを取り巻く女性たちの存在感が際立っている。男性社会に抑圧されるなかで嫉妬や快楽など様々な感情をむき出しにし、あるいは抵抗やしたたかさを見せる、女性たちの内面的な自由さや多様さ、そのいっぽう悲惨さや混迷さまでが台詞や歌詞に溢れるように刻印されている。『三文オペラ』は世界中で何度もリバイバルされ、数多ある古典作品のひとつとして一人歩きしている状況において、文字で起こされた戯曲を読むことはブレヒトの先見性や叙事性、自由な価値観を持った精神に直に触れる、いわば舞台化以前の原点に立ち戻る機会を与えられることではないかと、ブレヒト入門者の身としては厚かましさを感じつつもこう思うのである。