『 HHH:侯孝賢 』(1997)オリヴィエ・アサイヤス

 『恋恋風塵』のワンシーンが映った時、思わず懐かしい感情が込み上げてきた。台湾の田舎に残る昔ながらの日本的風景というのではなく、古今東西の映画を観まくる若かりし頃の映画生活を始めるきっかけになったのが『恋恋風塵』だったという、昔の映画的記憶が懐かしさを伴いながら蘇ってきた個人的な体験からくるプライベートな感情である。オリヴィエ・アサイヤスが台湾を代表する映画監督の一人である侯孝賢に迫ったこのドキュメンタリー映画には、侯孝賢によって過去に撮られたいくつかの映画のワンシーンが度々挿入されている。侯孝賢の生まれ育った故郷や自作品にゆかりのある土地をアサイヤスと侯孝賢が一緒に巡りながら台湾の各地の風景が柔らかな淡い光(陽光ではあるがギラギラしてない)とともに一つひとつのカットに収められている。過去の作品の印象的なワンシーンと本作において撮影されたアサイヤスと侯孝賢の居る旅風景のワンシーンの画調には差異がほとんど見られず、次元を異にするはずの両方のワンシーンが滑らかに地続きしている。そのような奇跡に近い映画表層の連鎖と融合には、台湾の気候や土地で行われた撮影条件の共通性という以上に、フランスと台湾の二人の監督の間にある映画に対する価値観の共有と創作への情熱に根差したアサイヤスの侯孝賢への最大限のリスペクトから導き出されている。県知事邸の庭にあるマンゴーを盗んで食べた時の思い出を語るシーンで、侯孝賢は手書きの庭周辺の地図に指を当ててマンゴーを盗んだ時のルートをなぞっていくのだが、マンゴーの木の箇所で地図の紙に触れていた指を突然上に離す。今は跡形も無くなったマンゴーの木を登ったことを表す、上にベクトルを向けた指の動作は地図上に横たわる二次元の制限を一気に突き破り三次元空間へ跳躍する。スクリーンの平面性や物体の不在の事実性までもがあっさりと超越してしまう一瞬の出来事、何気ない動作は侯孝賢が少年時代に経験した時の感覚が映画を撮る時の感覚に通じているのだと話したことと直接繋がっている。同一人物の言葉とアクションがダイレクトに結びつくことのスリリングさは制作サイド(監督)の予期しないところに唐突に出現する。物理的空間への記憶が一動作に蘇るその瞬間をスクリーン越しに目撃した者は忘れがたい幸福な映像体験を得ることになるだろう。侯孝賢は本作の中で登場人物にしろ台湾の歴史(政治史)にしろ、客観的な視点を持って映画を撮ってきたことを何度か力を込めて話す一方で、ラストのカラオケシーンでは長渕剛の「乾杯」を熱唱し、オス同士のバチバチしたホモソーシャルな世界への強い憧憬が映画を撮る時の原動力の一つになっていることを躊躇なく吐露する(カラオケシーンの前辺りに『非情城市』のヤクザ同士による殺し合いの長いワンシーンが挿入されている)。今の時代からすれば時代遅れな世界観や価値観を持っているように感じるかもしれないが、侯孝賢は台湾の文化や歴史に根差した時代精神や身体感覚を忠実に映画に反映しようとしたがゆえに「私」的な作家主義を形作っているとでも言えるのかもしれない。本作に挿入されたワンシーンのひとつである、ホモソーシャルな世界を色濃く反映した『憂鬱な楽園』のオートバイ走行の長回しには圧倒的な強度があり、いつまでも観ていられてしまう(二人のチンピラにくっつく一人の女性の人物構成は数多の映画に描かれてきたホモソーシャルなイメージである)。台湾ニューウェーブを索引してきた侯孝賢の生い立ちや映画制作から培ってきた時間と空間への普遍的な感覚と私的な感覚の振り幅を探るようにして撮られてきた映像の束は、やがて観る者の日常生活に流れる時間と空間に帰還していく。