『ビーチ・バム − まじめに不真面目 −』 ハーモニー・コリン

 ハーモニー・コリンの最新作『ビーチ・バム -まじめに不真面目-』を観る。『スプリング・ブレイカーズ』以来の7年ぶりの長編映画だが、パンデミックの最中に引っ提げてきたタイミングは、偶然でもなく必然でもなく、ただいつものように上映されることにいたる映画作品自体が、寡作の監督であるコリンのマイペースによってパンデミックより先に今の時期に上映される成り行きになっただけのことに過ぎない。しかしながら、登場人物であるムーンドッグのぶっ飛んだ生き様はコロナ感染で一層広がるコンプライアンス(自粛)の動きや不安の感情と反比例するようにして、一時の躊躇もなく自由や快楽へのベクトルに揺蕩いながら向かっている。まさに、コロナ禍の現在に観られるべき価値を有しているのではないかと思わされてしまうほどのタイムリーかつ逆説的な映画となっている。過去に書いた一冊の詩集が絶賛され大ヒットしたことがあり、大富豪の妻をもつムーンドッグは働かずに気ままに放蕩生活を続けている。常に酔っ払ったりラリったりするムーンドッグがうろついているのはフロリダ南部にあるキーウェスト島であり、楽園にふさわしい海と太陽が彼を照らしている。陽光にきらめく日中のシーンに映る、澄み切った青空の透明さや太陽のギラギラ感、あるいは夜の繁華街のネオンの輝きや大麻を吸う部屋のパープル照明の艶かしさといった、ムーンドッグの弛緩した心身と快楽的に反映しあう映像イメージが終始連鎖しているのだが、それら以上に太陽が海に沈む情景が映る夕暮れ時のシーンがエッセンス的に使われていて、リリカルな強い印象をもたらしている。日没前後のオレンジ色や黄金色に染まった、ややハイコントラストな画面はドラマチックに映えてはいるが、言うまでもなくコリンはセンチメンタルな感情を催すために夕暮れのシーンを撮ったのではない。酔っ払っている時やラリっている時の感覚を持続するムーンドッグが目にする光景の鮮やかさと朦朧さが入り交じるような視覚経験が夕暮れのシーンをピークにして、観客にそのような日常と非日常の狭間を彷徨う感覚の共有を働きかけている。ムーンドッグは一箇所の場所に長くいることはなく、様々な場所を転々とし、様々なキャラクターのある人々に出会うシーンの移り変わりを繋ぐカット割りはミュージックビデオのような滑らかさがあり、ムーンドッグの漂流する至福な身体感覚を追随している。社会からドロップアウトした、ただの酔いどれやドラッグ常用者であることに変わりはないのだが、気ままな放蕩生活の中心にはタイプライターがあり、時たま思い出したようにタイプライターに詩を打ち込むルーズなルーティンが目を覆いたくなるような野蛮さや下品さのなかで道徳以前の純粋な理性と無垢な魂を輝かせている。ムーンドッグの紡ぐシンプルな言葉の連なりは「正しさ」にともなう窮屈さとは無縁のポジティブな哲学となり、それらの砕片が潮風や海波に乗って窒息した今時のネガティブな世の中へとばら撒かれることになれば、ほんの少しマシな世界へと変われるのかもしれない。

https://movie.kinocinema.jp/works/beachbum/

「スプリング・ブレイカーズ」 - JJ's eyes