映画表象としての手話とかなんとか

 現在、訳あってろう者に関連する映画を立て続けに観ている。(「ろう映画」というカテゴリーを当てはめることはできるが、その該当範囲の広大さと定義のあいまいさがあり、一筋縄ではいかないところがある)。ろう者や難聴者が監督したのもあれば、聴者が監督したのもあり、映画のキャストに際してはろう者や難聴者といった当事者による出演や演技から聴者が演じるろう者役まで様々なパターンがある。その範囲は日本に限らずアジアから欧米にまで及ぶので、日本手話しか知らない僕に、映画の画面に表れる各々の手話に対して言語的に意識する余地を与えてくれない。とはいえ、ネイティブの手話使用者としての立場(厳密に言えば第一言語としての手話使用者)というか矜持みたいなものが言語的意識の放棄をなかなか認めてくれない。日本手話以外の手話に対しても「何となくこれはろう者の手話とはかけ離れているな」「ろう者のリズムではないな」「口の動き(マウジング)が多いな」等といった印象の嗅ぎ分けを無意識と意識とにかかわらず行っている。しかしながら、各々の手話をほとんどわからない僕にとって、そのような嗅ぎ分けは次第にあまり意味のないものになっていく。たしかに、自分の使う言語が普段その言語を使わない人によって映画やドラマの中で使われる際に、大小の違和感を覚えてしまう経験は誰しもが持っているはずである。そのような状況は不可避的にならざるをえなくなり、制作側の発信者と観客の受信者の大半は最終的には言語的エッセンスまでには届かず大した問題ではなくなっていく。再生産と流通のうえに成り立つ消費文化のシビアな面もあるが、それ以上に言語のハイブリット化が現代社会を覆っている現実と関わっていることのほうが大きいのかもしれない。音声社会の中で様々な影響を被る宿命から逃れられない手話の置かれた現状が映画にも表象されているとでも思うしかない。ただ、映画の外部の事実性(社会性)と映画の内部で行われる表現の問題性(芸術性)は別々に考えなければならないような気がする。非当事者が演じることから発生する違和感の問題に話を戻して言えば、映画やドラマが虚構の世界であることを前提にする必要があるのではないか(ドキュメンタリー映画も含む)。例えば、『名もなく貧しく美しく』(1961)の聾唖者の役を演じた小林桂樹は言うまでもなく聴者であったが、小林の目を見張るような奇跡に近い優れた演技は、本人の「演技力」のセンスや才能以上に松山善三監督の当事者(=聾唖者)に対する倫理観や映画自体がもつ強度によって形成されている。つまり、非当事者が演じることへの違和感の次元をはるかに超えていたのである。違和感が発生してしまう状況というのは、非当事者による演技の問題よりは作品そのものの質、演出の力量や慧眼に左右されることのほうが大きいのではないか。当事者の役は当事者がやることの意義は言うまでもなく大きいが、虚構のなかで演じること、映画と役者の作られた関係そのものにまず向き合うことが「ろう映画」を観る際に求められることのひとつであると思う。「ろう映画」に限らず全ての映画においても言えることではあるが。