ケリー・ライカート監督特集 /『オールド・ジョイ』:早稲田松竹

 早稲田松竹でケリー・ライカートの映画4本を立て続けに観る。4本とも掛け値なしに素晴らしかった。『リバー・オブ・グラス』(1994年)はデビュー長編というのもあるが、ライカートが評価されるきっかけになったと言われる長編2作目『オールド・ジョイ』以降の2000年代の3作品とはかなり作風が異なっている。しかしながら、ライカート自身の人生において培われたアメリカ社会への独特な視点がすでに内包されている。アメリカ社会の中で「自由とは何か」「自らの意志を持つとはどういうことか」といった漠然とした問いへの感覚を映画表象によって先鋭化してきたライカートの原点が垣間見える。4作品の中でも、特に『オールド・ジョイ』(2006年)は、僕の心のひだを震わせるものがじわじわとだが、次々と溢れるような新鮮な映画体験だった。久しく会っていなかった、身重の妻がいるマークを唐突に小旅行へ誘うカートの人物像には、何というか僕自身のこれまでに起こってきた心情のどれにも当てはまるような感覚を催させ、マークとカートの一緒にいればいるほど微妙な関係になっていく描写にも僕自身の人間関係と重なったリアリティが現れている。そして、これは僕に限らず孤立した現代人の心の片隅に置かれ、いたずらに外部には出さない秘匿なものであり、また共感覚的なものでもあるだろう。カートはおそらく腰を据えて働いていない独身者の身分だと思うのだが、そのような社会不適合者と、既婚の身でありこれから家庭を持つことになるマークの社会適合者が旧友というつながりで再会する構図には、現代社会に生きる人々の間に発生する階級的隔たりが潜在している。かつての友情関係からカートをつなぐマークの優しさは自身の社会的立場の変化や旅行中に時折妻からかかってくる電話のような社会的外部の侵入によって脆くも崩れていく(言うまでもなく偽善的な優しさではなく誠実の優しさではあるが)。だが、旅行中は大自然の中を走る車の閉鎖性によって2人だけ(飼い犬のルーシーもいるけど)のホモソーシャルな親密性はかろうじて保たれている。森の深いところにある温泉で裸になった2人はカートのマークへの唐突なマッサージによって、過去にあったホモソーシャルな友情関係を再び結ぶことになる。マークは最初は戸惑いと動揺を見せていたが、次第にカートに身を委ねるようになる。この艶かしくもミステリアスなシーンは、同性愛関係を暗示するイメージとなっているが、性的なイメージというよりは久しぶりに再会した2人のわだかまりや対話の喪失を言葉や理性で修復するのではなく、お互いの身体がスキンシップし合うことによって、物体の次元で精神の壁を解消していくという意味を呼び起こさせるシーンとなっているのではないだろうか。カートに肩を揉まれていくうちに浴槽の縁にかけたマークの手腕が湯の中に落ちるシーンがあるのだが、マークの手指には結婚指輪がはめられている。指輪も含めてぽとんと落ちる様相はカートが旅行中でも社会的人物のままでいるマークを非社会的空間に引きずり込むことに一旦成功したイメージとなっている。しかしながら、かつての友情関係は再生することなく森から戻った街で2人は互いに別れる。妻の待つ家に帰るマークに対して、カートは夜の街を彷徨っている。マークと一緒にいる時の悠然さは消失し、虚な表情で孤独に街中を右往左往するカートのラストシーンは2人の決定的な身分性(階級性)の違いを際立たせている。カーラジオから流れるアメリカの政治的風景は車窓の外に広がる自然の風景(オレゴンの風景)へと霧散霧消し、マークとカートは2人の友情関係の変化をなすがままに受け入れる。これがアメリカの現実であり、同時に世界の現実でもあるといえよう。

http://wasedashochiku.co.jp/archives/schedule/15917