寺田政明の絵画 〈 井上長三郎・寺田政明・古沢岩美の時代 ー 池袋モンパルナスから板橋へ 〉板橋区立美術館

 板橋区立美術館の館蔵品展〈 井上長三郎・寺田政明・古沢岩美の時代 ー 池袋モンパルナスから板橋へ 〉を観る。井上長三郎については以前にブログで書いたことがあるので、今回は寺田政明の作品について書いてみたいと思う。というのも、以前に観に行くことが叶わなかった、2013年開催の熊谷守一美術館〈 発芽する絵画 寺田政明展 〉のチラシに載った表紙作品や裏面の作品図像のインパクトがずっと僕の中にあって、いつかは寺田の作品を直で観たいと常に窺っていてようやくその機会が訪れたというわけである(虎視眈々というほどではなく、僕のずぼらなアンテナにタイミングよく引っ掛かったにすぎないけれど)。各作家ずつに分かれた展示構成になっていて、寺田の展示はほぼ制作年代順に配置されている。一番最初の展示作品である、1932年制作の《谷中真島町(モデル坂付近)》は、激しいタッチと絵の具をそのまま使ったような厚塗りがなされていてフォービスム風といった印象を受ける。1930年代後半の作品辺りになってくると荒々しい筆使いはなくなり、1938年制作の《宇宙の生活》はガラリと変わって絵の具を平板に塗った明確な輪郭のあるフラットなイメージが展開されている。しかし、同年(1938年)に描かれた《夜(眠れる丘)》と《芽》はイラスト風な《宇宙の生活》とは画調を異にしている。ポップ的な明晰さのかわりにくすんだ色が画面全体を支配し、繊細で寂寥なイメージが描かれている。《夜(眠れる丘)》は、闇の夜空に何故か空色の雲が描かれていて、その下には様々な形や模様を有した巨大な岩が幾重にも連なっている。昼間に撮影した場面を夜間の場面のように見せる映画技法〈アメリカの夜〉を絵画に応用でもしたかのような不可思議な画面には、人工的なイメージが全体的に漂っている。その一方で、画面下には植物らしきものがかろうじて有機的な形態をひっそりと披露しているが、枯れているのか生きているのかは曖昧な状態である。連なった巨岩も一つひとつに着目すれば、有機的な造形や複雑に刻まれた岩肌や窪みがあり、その有り様には何か得体の知れないものがうごめく気配がし、何らかの意思や生命を秘めているようでもある。ハイライトを落とした控えめな画面上でそのような人工性と有機性が相反的に交錯するというよりは互いが融合するように共存し合っている。《芽》は静物画の体をしており、画面の中央下から植物なのか生物体なのかよくわからない形をした物体が積み重なっているが、画面の上部に向かうベクトルと不可思議な形の組み合わせには後光の効果もあってか、やはり生命的なものがほのかに感じられる。戦時下に描かれた《かぼちゃと山》(1943)は、上記の2点の作品に近い画調を有しているが、観念的かつ創造的なイメージよりは、現実の事象事物を即物的(写実的)に描いている印象がする。それでも、かぼちゃと他の農産物をテーブル上で構成的に配置した前景と低山と道が描かれた遠景の組み合わせには、何か人間的な視線関係のメタファーが現れているようでもある。かぼちゃと農産物は配給されたものとのことだが、色彩を主張することなく隠影の中に描かれ、ひっそりとしているテーブルの物体群の様相は戦時中の国家的要請に翻弄されたり、内的葛藤を抱えたりする人間の精神状態や虚無感が重なるようでもあるが、そのような観念的なものや不穏な空気感に同化されない物自体の唯物的表象も確実に表現されている。戦後の作品はやや荒いタッチが再び見られるようになり、ヒューマニズム的な絵画的アプローチがそこはかとなく現れてきている。寺田の絵画は時代とともに変化していることが、少ない作品数でありながらも感じられるような展示になっている。しかしながらやはり、1930年代後半から1940年代前半の戦前戦中の時期に描かれた不可思議な情景や独特なフォルムをモチーフにした作品に無意識の内に惹かれてしまう。〈発芽する絵画 寺田政明展〉のチラシの表紙や作品図像の絵画も同じ戦前戦中の時期の作品である(形態をテーマにした習作的作品は制作年代不詳になっているが、モチーフの相関関係から戦前戦中の時期に描かれたと思われる)。戦前戦中における、画家の置かれた状況やその時代の空気に左右される際のネガティブな強度が寺田の心象に及ぼし、自分の内面にある自我意識がより一層沈潜していく中で、あらゆる複雑さに直面し、それらをあるがままに受け入れるようになったのだと思う。非常有事の中で自分と見つめた先には、意味関係から離れた形態(物体/空間)そのものを研ぎ澄まし、独特なフォルムや情景(光景)に昇華した成り行きとしての絵画イメージが宿命的に戦前戦中の作品に表現されていったと言えるのではないだろうか。寺田政明は1966年に「描くゆえに我あり」というエッセイのなかで、以下のことを書いている。〈私の郷里の福岡は、煙突の街であり、煙の街であった。煤煙は健康にわるくて、私も咽喉をやられてよく咳いた。しかし、絵を描くようになってからは、煙をふきあげる煙突にも親しみを持った。それまではただ一色に見えた真黒い煙さえも、よく見ると実に多彩であった。季節によって、時間によって、煙の色はちがった。殊にキラキラと輝く太陽に向かって、その輝きを消すようないきおいで昇って行く煙の色は、複雑で面白かった。〉

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000016/4001526/4001527.html