クリント・イーストウッド監督50周年記念作品 『クライ・マッチョ』

 神楽坂の名画座ギンレイホールにて『クライ・マッチョ』を観る。1970年代後半の時代設定から始まるこの映画の冒頭は、オーナーらしき人物が待機している、牧場か農園のようなところにあるぽつんとした建物に向かって、一台のトラクターが流麗なカメラワークに収められながら近づいてくる。建物の前に止まったその車の下から覗かせるローアングルの画面に土埃を上げて地面に降り立つ二本足が出現するその瞬間、これから始まるこの映画が現在においても西部劇以外の何ものでもないという揺るぎない確信が早くも芽生え、観る者の映画的記憶が引き出されていく。映画に描かれる虚構的人物の枠をはみ出さんばかりの90代の年齢に突入したクリント・イーストウッド自身の「老い」としての身体的限界が本作の内外を超えた唯一無二の時空間を形作っている。スターとしてのイーストウッドの顔と、馬や車を自由自在に扱う手といった「記号的な身体の部分体」に幾重も刻まれた無数の皺より、メキシコの広大な自然や昼夜を問わず乾ききった街風景に包まれたフルショットに映る緩慢な歩行が見せる「全身像の運動体」が本作の全編にわたって強さと弱さの両方を持った実在的な印象を行き渡らせている。老いた身体から発する一つひとつののそのそした動作が映画の始まりから終わりまでさまざまなシーンに何度も何度も映り、映画史の一通りを演じてきたイーストウッド的表象を遺作になるかもしれない本作において集大成していると言っても言い過ぎにはならないないだろう。それはやはり、ラストに描かれるメキシコの小村で食堂を営む女主人とともにゆっくりとステップを刻むダンスシーンに『マディソン群の橋』に描かれる世界を思い出さずにはいられないことがそのような感触に少なからず影響を与えている。90代になっても当然のように行きずりの恋愛をこなす、凡人の我々があり得ないと考えてしまう状況をいとも簡単に成し遂げるイーストウッドの虚構とも現実ともつかないそのありようはあまりにも映画的ですらあるのだ。だから、夜の部屋で女性の誘惑に駆られたり、盗難車を含む4台もの車を乗り継ぎたり、追手を何度も撒いたりする幾多のご都合主義なシーンを継ぎ接ぎしたストーリーの展開における理屈づけの全面的放棄は呆れてしまうことを許さない最上級の映画的悦楽を観る者にもたらしてくれる(個人的にはアキ・カウリスマキマノエル・ド・オリヴェイラが共同監督したかのような不可思議な感覚がしたものだった)。イーストウッド演じるマイクと少年ラフォの2人を献身的に支える食堂の女主人マルタにはろう者の孫娘がいるのだが、マイクとそのろう少女が手話で話すシーンがある。その光景とマイクが手話を使うことに驚いたラフォにマイク、いやイーストウッドは「長く生きているうちに覚えたのさ」と語る。ストーリーの本流からは外れた末端のシーンにすぎないのかもしれないが、引退した元カウボーイの老人の口からさらりと出てくるそのシンプルな言葉には、人生の豊穣さと深い愛情を十分に感じさせるだけの度量が孕まれている。保安官に賄賂を渡すラフォを見守るマイクも長い人生の中で生きるために理不尽なことを含め、様々なことを覚えてきたのだ。

https://wwws.warnerbros.co.jp/crymacho-movie/