資本主義とアート:ダニエル・アーシャム/山本篤/金村修 [ PERROTIN , ShugoArts , CAVE-AYUMI GALLERY ]

 ここ最近一週間のあいだに、3つの現代美術系の個展を観賞する。PERROTINのダニエル・アーシャム「31st Century Still Lifes(31世紀の静物)」、ShugoArts山本篤「MY HOME IS NOY YOUR HOME」、CAVE-AYUMI GALLERYの金村修「Sold Out Artist」。絵画とオブジェ、映像とオブジェ、映像インスタレーション、それぞれの展示メディアと展示手法は異なるが、3つの個展のどれもが展示作品の背後に我々が生きている現在の社会を形づくる資本主義の巨大な影がぼんやりとではなく、くっきりとした輪郭が浮かび上がるようなイメージが通底している。ダニエル・アーシャムの展示は厚塗りされたカーキーとブルーとグレーの3色パターンの静物画、ブロンズとステンレンスを組み合わせたアイコニックな頭部彫像、ハイドロストーンで考古学風に表現された映画ポスターの3つの作品群になっているが、それぞれにメディアが異なった一連の作品に共通しているのは、ハイブランドが供給するハンドメイドがもつ「上質/洗練/クオリティ」への共振と踏襲である。ハイカルチャーサブカルチャー、スポーツ等が混合する現代的な感覚とイメージは富裕層の消費心理をくすぐる。山本篤は「家」という人類が培ってきた制度をめぐって、「個」「社会」「地球」との関係性を映像のなかで主に作家自身の身体をとおして次元を超えた様々なアプローチを試みている。そのひとつである《 The Dream House 》は、簡易につくられたミニチュアハウスを作家自身がホーチミンの街頭の様々な場所(時には部屋の中でも)に持って出かけ、その場所に落ちているゴミを次々と貼り付けていく様相を撮っている。生成していくゴミのオブジェ以上に、行き交う通行人や街の様子に時々意識を向ける作家の目の動きやふるまいが印象的である。人とは(かなりの)違った行為を異国の地でする外国人としての「見られる」存在と用が済めば不用物として道端に捨てられ、街の片隅で「見られない(見向きされない)」ゴミの存在が同じ地平の表象に併置されている。ミニチュアハウスの一部になることで価値化、可視化されたゴミはある時点にたどり着いた時に「見られない」無の存在として再び街の中に放り出される。その際に映されるきらびやかな花火や高揚感に包まれる人々、そしてそれらに混じる作家の清々しい表情と地面に転がるゴミの塊の無残な姿が対照的である。作家の手を離れたゴミのオブジェは資本主義経済の導入によって急成長を遂げるベトナムの地で膨張するただのゴミに還元するしかないのである。金村修の映像作品はギャラリーの壁面の半分近くを占め、天井から床面まで伸長された3つの画面が連なるようにして投影されている(サブスペースの映像も含めれば4つになる)。画面の端同士が重なり、天井や床面にも映像の一部がはみ出ている様相は映像作品に対面するというよりは映像空間に観る者の全身体が包まれている感じである。高速で無差別に流される都市風景のあらゆるイメージを一様に浴びているとギャラリーの非日常空間から現実の日常空間にワープするような感覚を催させるのだが、視覚を通して脳内に蓄積されるのはイメージの記憶または既視感というよりは時間感覚のズレである。日常空間の時間感覚は日々目の当たりにする都市空間の現象や都市風景の変貌をそのまま受け流してしまうが、高速で目まぐるしく流れる都市風景に低速のショットが唐突に挿入され、ショッキングであったり印象的であったりするような都市表層の緩急自在なイメージがモンタージュされた映像のノイズ的運動体には都市空間と観る者の身体の関係を一時的に立ち止まらせてくれる。金村の映像インスタレーションは率直な印象で言えば、過去から繰り返されてきた表現方法のひとつにすぎないのかもしれない。だが、金村のいう「アナクロニズム」が未来への進化ではなく、過去に引きずられる現在のイメージがもたらす停滞と分裂と反復であるならば、金村の視線や思考は幾重に重なり合う都市風景のイメージを通して未来なき資本主義そのもの(限界としての資本主義)に向かっていると言ってもあながち間違ってはいないだろう。