『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』 ラドゥ・ジューデ

 『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を観る。日本公開版では、この長いタイトルに「監督〈自己検閲〉版」がおまけとして付くのだが、鑑賞前は画面のどこかしらに多少の修正が入るくらいだろうとの軽い認識を持っていたのだが、全く甘かった。それどころか、画面全体をほぼ覆い尽くす文字のステッカーのキッチュさは、不可視となったセックスシーンの代用として通ずるくらいの露悪的かつ下品な(セックスそのものではなくプライベートな行為が世間に悪趣味的に受容されることに対して)センスを遺憾なく発揮している。それはともかく冒頭にいきなりセックスシーン(それも結構な時間が費やされている)が始まるプロローグがあり、後に三部構成が展開されるのだが、各部にはそれぞれ違った映画様式が採られている。優劣や是非の判断を誘導するよりは、全てに対して大小にかかわらず挑発的であり観賞後には何もないカオスの状態がほったらかしにされた感じの作品とでもいったらよいだろうか。三部構成やラストの3つの結末といった複数の視点を置いたカオスな世界はパンデミック以後の現実世界をメタファーする監督の狙いが奇妙な形で方法論化されている。第一部は主人公のエミがブカレストの街を漂流するシーンが延々と続くが、第二部は打って変わってルーマニアの社会、文化、歴史が抱える諸問題が静止画やニュース映像等の断片によってテンポよくリズミカルに暴き出されていく。第三部は、教師であるエミの学校で保護者説明会が罵詈雑言に繰り広げられ、大団円どころか3つの時間に分裂してしまう。パンデミックは人間の本質を絶望的なまでに炙り出してしまうというメッセージ性が芸術的アプローチと社会的アプローチの両側から同時に浮上してくるのだが、そのどちらも(ブラック)コメディによって空中分解してしまうというオチを最後に持ってくるあたりが今の閉塞的な空気感、不安不穏な心情の反動としての厭世観にフィーリングが見事にマッチしたのだろう。個人的には様式が異なる三部構成(序章のセックスシーンも含めて)に映画的感覚がついていけないところが出てしまったが、第一部のコロナ禍のブカレストの街をエミが延々と彷徨う連続シーンの描写は大変興味深かった。ベースとしてはエミの行く方向をカメラが追ったり、固定ショットの中で通過させたりしているのだが、ワンショットの後部になるとさりげなくエミをフレームアウトさせたり、逆方向に横パンしたりする。その画面には、ケバケバしい広告看板、廃墟手前の古びたビル、自己中心に行動する街の人々等が残されたように映っている。街のリアルな風景を映す意識的(作為的)なカメラワークではあるが、社会派リアリズムの視線を上回るショットの優位性といった感触を得ることができる。嗜好が分かれる怪作といってもいいこの映画だが、そのような第一部の反作用的ショットが存在する限りにおいて少なくとも観る価値はあるように僕は思うのである。