『ケイコ 目を澄ませて』 三宅唱

 部屋の中でケイコが紙に何かを書いているシーンからこの映画は始まるのだが、日本語字幕では丁寧にもそのシーンに〈紙に書く音〉の文字が表示される。映画を観る時は補聴器を着けるのだが、ペンが走る小さな音には映画の流れに身を任せる状態ではほとんど拾うことができない。その後に際限なく続くケイコの一挙手一投足から発生する生活音(ドアの開閉、食事の場面など)やケイコを取り囲む環境音(電車や都会の喧騒など)といったレベルの単音から複音までの様々な物音は補聴器を通して入ってくるのだが、音の存在を知らせる文字が(全部ではないが)その度に表示される。物と物がぶつかるというシンプルな原理がストレートに現れる即物的な音の極め付けはボクシングジムのシーンであろう。サンドバッグやパッチングボールの連打、ミット打ち、フットワークのステップ等のリズミカルな感じとゴツゴツとした感じが混じり合うような音は、補聴器で曲がりなりにも聞く身でさえ恍惚としてしまう。人間の動作にともなうクリアな音の存在の生々しい感触がこれほどわかりやすく得られることはないと思うと同時に、ろう者の自分も日常の中ではあらゆる物音を出し続けているのだというまぎれもない事実にあらためて気付かされるのである。松本トレーナーとケイコによるコンビネーション練習のシーンは冒頭近くと中盤と終盤のあいだ辺りに2回現れる。ケイコと松本トレーナーの人物像がまだ分からない段階にある最初のシーンは、松本がケイコに手取り足取りに教える感じから始まってそれが次々と形になっていくといった2人の共同動作のプロセスそのものが現出している。自己と他者のふたつの存在が鍛え抜かれた肉体の境界線上で踊っているようであり、研ぎ澄まされた一つひとつの動作が流麗に仕上げられていく気持ち良さをワンシーンワンカットは少しも逃していない。2回目のシーンも最初のシーンとほとんど変わりない2人による流麗なコンビネーション(スピードアップし、進化した感じはあるかもしれない)が映っているが、ケイコと松本の人物像がそれなりにつかめてくると、同じシチュエーションでありながらも最初のシーンとは違った印象を受ける。ミットを打つ動作、パンチを受ける動作、避ける動作、反撃する動作などが2人のあいだでシンクロする一連の動作が手話で会話しているように見えてくるのだ。肉体の境界線をこえて相手の身体のなかに入ることによって、互いが相手との交感をはたそうとするかのようである。ケイコは耳が聞こえない身体を所有しているがゆえに、コンビネーションの運動性に視覚性と空間性のなかで肉体とダイレクトに結びつく手話がオーバーラップする。手話はできないものの、ケイコに対して献身的なサポートをする松本への信頼関係が肉体から感情を通して精神の交流へと導く。

 ケイコはろう者の友人を持ち、手話を使う人物として描かれているが、ボクシングに真摯に向き合う孤独な姿はろう者という身分性をこえてひとりの人間そのもの、あるいはひとりの女性そのものとしての越境的な存在(もちろんグローバルな存在ではなくローカルな存在であるしかない)となっているように見える。しかしこの映画では、世間と距離を置き反抗的な感情を内包するケイコに対して、登場人物のほとんどが慈愛と言ってもいいような優しい眼差しを注いでいる。この映画で悪印象的に描かれるのは「女性にばかり教えている」とボクシングジムを辞める若者の男性、街頭でケイコとぶつかり罵声を上げる中年の通行人の2人くらいしかいない。移籍候補先のジムの女性オーナーのケイコに対する過剰なふるまいはこの映画におけるノイズとしての表象あるいはアクセント的な人物として描かれているようにみえるが、優しさのタイプが少し違うだけで、ケイコに適切な距離を保ちつつ無償の親切心で接する登場人物たちの理想的に描かれる人間性に対する異質さとはならない。むしろ女性オーナーのような人物は、マイノリティにとっては誠実さと独善さ(正義への過剰な意識)のあいだを行き来するようなリアリティを有する身近な存在である。前述した〈紙に書く音〉の字幕のような音の存在を知らせる文字表示自体はこの映画に通底する「優しさの眼差し」のアレゴリーになっているように思われる。補聴器を着けても即物的な音しか拾うことができないろう者(個人差はあるが)にとって、音の存在を文字で認識することは概念的行為の次元にとどまることでしかなく、(聴覚としての)感覚的なものを身体や脳髄の奥底にまで落とし込むことではない。耳が聞こえない者は〈世界は音で溢れている〉という圧倒的事実を残酷なまでにただただ受け入れるしかないのである。

 ケイコはトレーニングでやってきたことを中心に日々の出来事をノートに書き綴っている。そのノートに興味を惹かれた会長の妻は入院部屋や病院の廊下でジムの会長に向けてケイコの日記を朗読するのだが、朗読が始まると画面はケイコのトレーニング風景やケイコと会長が交流するシーンなどに切り替えられ、フラッシュバック的な画面のなかで朗読はナレーション化する。『Coda コーダ あいのうた』の終盤に描かれる、音楽学校の入試シーンの際に感じたのと同じような感触を再び受けることになったのだが、それは総じて「耳が聞こえない身体性と(映画における)その対象人物が音によって分断されてしまう」問題が露呈したことである。ケイコがボクシングや日々の生活を通して見てきたことや感じてきたことが、音声によってジムの会長やトレーナーあるいは家族やかかわりのある人たちと結びつく時にケイコは耳が聞こえないがゆえに画面の表層上で疎外されてしまうことの可能性が孕んでいる。ノートに書くという行為や書かれた文字そのものの視覚表象があるにもかかわらず、ナレーションという聴者のドラマトゥルギーによって聴覚表象が優先されてしまったきらいがあったことは、ろう者の身として言わないわけにはいかない。その一方で、ナレーション的な音声の運動が映像の運動を導引する音声の優位性に対して、ボクシングジムでのトレーニング光景においては映像の運動が音の存在を導き出すことによって視覚の優位性が示されている。そのような両義性がはからずもこの映画の核心になっているように思う。しかしながら、マイノリティとしての宿命を全面的に受けるしかない気持ちが生じてしまうことも否定することはできない。ケイコと弟が手話で話すシーンに導入されるサイレント映画特有の黒画面字幕と会長の妻の朗読によるナレーション的表現が同作品内で併用されていることの映画的現実は、トーキー移行以前のサイレント映画では上映の時にオーケストラ伴奏や活弁を登壇していたという歴史的事実と繋がっている。ろう者(耳が聞こえない者)と手話の表象に対する芸術的な忠実さ、音声社会における芸術的表現とは何かを思考するうえで、いくつかのヒントをこの映画から得ることができたように思う。