たしか20代前半の時以来だったような記憶になっているが、初めて観るかのように再び観ることになったジャック・リヴェットの『彼女たちの舞台』は掛け値なしに素晴らしかった。学生の時に観た時は、ヌーヴェルヴァーグ5人衆のひとりとしてリヴェットの映画を見なければならないという変な義務感みたいなのが当時の僕にはあって、もちろん刺激をたくさん受けたのだけれど、リヴェットの真骨頂というか、本質的なものを感じ取れるところまではいかなかったと思う。では、今回の鑑賞でそれを感じ取ることができたのかと言えば、もちろん自信満々にイエスと答えられるわけもない。しかしながら、学生の時よりはリヴェットの世界にたいする僕のパースペクティブの解像度がどのくらいかはわからないけれど少なくとも上がってきたような気はする。要は映画の細部やスクリーンの隅々まで楽しめたということである。冒頭でアンナがカフェを出て一直線に教室の中に入り、そのままステージに上がり稽古を始める。ビュル・オジェ演じる教師のコンスタンスと演劇学校の生徒たちがアンナの相手役の遅刻を含めその稽古風景を見守っている。その奇妙な一連の流れは現実における時間軸に沿いながらも、稽古シーンというなかばフィクショナルな空間(映画内演劇?)と外部から遮断された演劇学校の特殊な空間を唐突に挿入することによって、現実と虚構の交錯が繰り広げるその後のファンタスティックな展開のスタートを優雅に切っている。演劇学校の生徒は何故か女性だけになっていて、教師も元女優のコンスタンスのひとりしか出てこない。演劇学校と4人の女優の卵が共同生活する郊外の屋敷を往復する、女性だけの空間にひとりの男性トマが出現することによって、ヒロインたちの多様性(個性とはいわない)が大胆で豊穣な表情や仕草と繊細で脆弱な内面をともなって次々と引き出されている。その様相は閉ざされた空間や謎めいたサスペンス調であるにもかかわらずに、心ときめくような連続性を観る者たちに与えてくれる。だが、最後にはあっけなく登場人物のひとりが殺されてしまう。快楽と暴力が同時に表象されてしまうことの理不尽さはフィクションにおいて人生と世界の状況が描かれているにすぎない。屋敷の共同生活は4人だが、ルシアと入れ替わって出ていったセシルも含めて5人のヒロインが「演じる」といった虚構的行為と「振り回される」といった現実的行為の往復性は演劇学校と屋敷の場所性を超越し、映画的な拡がりを獲得している。セシルは殺人の容疑で逮捕された恋人の存在によって、女性と演劇だけの閉ざされた世界に男性という異分子と現実の社会という外部を流入する。このように事件に巻き込まれて切羽詰まっている身であるにもかかわらず、教師のコンスタンスはセシルの演技を「強烈さと同時に繊細でとてもよかった」と褒める。これは映画の終盤に明らかにされることの伏線であるよりも、その場面の会話そのものの明快な即時性なのである。つまり、芝居の台詞と現実の行為は地続きになっているが、虚構と現実は互いに合理的な関係を超えて瞬時瞬時に何かを無条件に与え合っている。「芝居は人生のようなもの」がリヴェットにかかれば「映画は人生のようなもの」へと止揚されていく。虚構と現実の止揚が映画という場で行われるのである。リヴェットは演劇を主題にした映画をしばしば撮っているが、それは舞台空間に束縛され生身の身体性に観客の意識を向かわせざるをえなくなるような存在としての演劇の俳優ではなく、やはり、カメラの動きの自由さと正確さの対象としての映画の俳優として存分に戯れあっているのである。チンピラと刑事を同時に演じ、4人のヒロインの共同体を攪拌する正体不明なトマ(ブノワ・レジャン)は次のような台詞を言う、「そうだ、そして無限に錯綜し合う人生。地下には?」。リヴェット世界は謎のままであることがふさわしい。