ギャラリー小柳で開催中の《クリスチャン・マークレー/LISTENING》を観る。プレスリリースに作家本人の文言が載っている。文言の冒頭に「聴くことはイメージとなり、観念となる。それは単一の直線的な行為ではなく、層を成し、累積する過程である。」の文が…
映画とろう者の関係性そのものを問わなければならない。正確に言えば、現代映画とろう者の関係性だ。つまり、トーキー以降、「音」は映画において、なくてはならないものになっている。「画」と「音」はセットでなければ現代の映画は成立しない。昨今ではろ…
終了間近になったので駆け込むようにして、東京オペラシティアートギャラリーの〈アルフレド・ジャー:あなたと私、そして世界の全ての人たち〉を観に行く。恥ずかしながら、アルフレド・ジャーという美術作家のことを今まで知らないできた。1956年生まれの…
最近、脚本を提供した昨年の演劇作品がオンライン配信されたので、今度はPCの画面を通して再び観賞した。劇場での観賞の時は終演後のトーク登壇の都合で、最後列の一番端に座って観たのだが、オンライン画面に映る手話台詞の拡大されたサイズ感に、自明のこ…
イギリス手話の指文字は両手を使って表現する。映画のタイトルがまさにそうであるように、映画の中ではラワンが自分の名前を指文字を使って言い表す場面が度々出てくる。〈LAWAND〉のLからNまでは手のひらと甲の指を置く場所の違いはあるものの、盲ろう者が…
隣国同士の日本と韓国のアート作品が一堂に会した展覧会《いつもとなりにいるから −日本と韓国、アートの80年−》を観に行く。全体的に総花的な印象を受けたが、日本と韓国のアート交流の歴史をおさらいする機会を得られたことが何よりも大きかった。日本人と…
座・高円寺を中心にこれまでの東京国際ろう映画祭を拡張し名称も変えて、大規模に開催された〈手話のまち 東京国際ろう芸術祭〉で、3本の舞台作品を鑑賞した。3作品は日本手話、国際手話、ノンバーバルとそれぞれの上演言語の形態が異なっている。国際手話…
森美術館の展覧会を観るのは実は初めてだ。現在開催中の〈藤本壮介の建築:原初・未来・森〉を観るためではない。同時開催されている、〈MAMプロジェクト033:クリスティーン・サン・キム〉の個展を観るためだ。会場は森美術館の出口近くのため、大阪・関西…
人はそんなのはわかりきったことだとわざわざ言葉にしないが、エドワード・ヤンはバランス感覚がとても優れた映画監督だと『カップルズ』を見てあらためて強く思った。大体の優れた映画監督やストーリーテラーは、作品世界を構成するハイスキルを絶対条件と…
アメリカのどこにでもいそうなちょっとお調子者である労働者のメルビンが夜の砂漠で大富豪のハワード・ヒューズを助けたことで、ハワードが亡くなった後に遺産相続の通知書を受けるといった実話を元にしているのだが、メルビンとハワードが一緒に出るシーン…
実は東京都写真美術館に行く前、当館で観る予定の2つの展示にたいしてどちらを先に観るべきかの真摯な問題にぶつかっていた。だが、美術館に入るやいなや自身の足は自然に、どちらかというとためらいもなく2階の〈ルイジ・ギッリ 終わらない風景〉の展示会…
とんでもない映画を観たという衝撃さに打ちのめされたまま映画館を出たのは、久方ぶりのことなのか、それとも初めてのことなのか、今の年代(自身の年齢)に観たからこそなのか、そんなことを思いめぐらすことさえ無意味になってしまうような至高の映画体験…
日本近代美術史の本流はいうまでもなく、傍流にもかろうじて引っかかったところで多領域にわたって活動した芸術家、望月桂という人の存在を初めて知る機会を得た。望月は東京美術学校出身で、西洋画科の同級生には藤田嗣治や岡本一平がいた。美学生のエリー…
IDEAL COPY[ CHANNEL:MUSASHINO ART UNIVERSITY 1968-1970 ]を観る。武蔵野美術大学が主催・運営するgallery aMの〈 aMプロジェクト2025-2026 〉企画のトップバッターであるIDEAL COPYの個展は、60年代後半に発生した学生運動の最中に武蔵野美術大学の学…
オープニングとクロージングに挿入された皺だらけの瞼と開いた目が交互するクローズアップのショットは、脚本には書かれていない(新訳ベケット戯曲全集3/白水社/2020年発行)。脚本と映画作品の内容の食い違いは上記のショットのみならず、いくつかの相…
円空の木彫作品を観るために初めて三井記念美術館へ行ったのだが、日本橋三井タワーの建物内部をまるっきり見せてくれないファサードに一瞬たじろいでしまう。ガラス張りを多用する現代の建築物に見慣れてしまった僕の東京(都市)における感覚に揺らぎと戸…
チリの首都サンティアゴの地下鉄運賃が30ペソ値上げされたのを機に群衆が暴動を起こした2019年から、左派のガブリエル・ボリッチが大統領選挙で勝利を収めた2021年までの約3年の間に撮り溜め編集された記録映像は圧倒的なまでにエネルギッシュの連続だった。…
東京国近美のギャラリー4の展示、『フェミニズムと映像表現』を観る。フェミニズムのテーマに合わせて、東京国近美のコレクションの中からセレクションし、映像作品のみで構成された展示になっている。入り口近くのキャプションによると、フェミニズムの歴…
先々月に観賞した『彼女たちの舞台』と先日に早稲田松竹で観てきた『地に堕ちた愛』(『彼女たちの舞台』と同じく20年以上ぶりの再観賞だが、今回は3時間の完全版)は、どちらもジャック・リヴェットによる「演劇」を主題に用いた作品である。「女優」に特…
舞台上の出来事に変化させられる前の戯曲に書かれた文字言語による台詞やト書きなどは、文学の次元にとどまっている状況の一要素であると言えるのかもしれない。しかしながら、戯曲はいうまでもなく、演劇のためのエクリチュールとしての存在や概念が世の人…
たしか20代前半の時以来だったような記憶になっているが、初めて観るかのように再び観ることになったジャック・リヴェットの『彼女たちの舞台』は掛け値なしに素晴らしかった。学生の時に観た時は、ヌーヴェルヴァーグ5人衆のひとりとしてリヴェットの映画…
都内の二番館で『瞳をとじて』をやっと観ることができた。スペインの巨匠監督、ビクトル・エリセが長編映画として31年ぶりに発表した『瞳をとじて』は、奇跡のような伝説的処女作『ミツバチのささやき』から、50年経っている。ビクトル・エリセは最新作の『…
早稲田で所用を済ませた後、時間ができたのでこれからどうしようかと考えていたところ、近くに早稲田大学があることに思い当たり、行ってみることにした。大隈記念講堂の立派で美しい外観を束の間堪能した後、正門周辺にいくつかある立て看板の中にスタイリ…
「わたし(自分)」自身そのものに立ち返ってみるとすれば、「地」としての世界にたいして、「自己」における「図」としての存在がクローズアップされてくる。世界は「他者」と言い換えることもできるのだけれど、他者との関係性のなかで、「わたしとは何者…
アーティゾン美術館で開催中の『ブランクーシ 本質を象る』展を観る。ブランクーシはルーマニアからパリに出て、下彫り工としてロダンの工房で働くようになるが、1ヶ月ほどで辞去している。当時のパリでは粘土による塑造を駆使し、分業制を確立させたロダン…
65年前の開館以来、中世から20世紀前半までの西洋美術のみを展示および収蔵(保存)してきた国立西洋美術館が史上初めて「現代美術」にフィーチャーした展覧会《ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?》を観る。国立西洋美術館は川崎造…
多磨全生園の正門をくぐり、目的地へ最短ルートで行こうとした先に現れた三方向のある道標の1つに「宗教通り」という何やら聞き慣れない文字を見つける。遠回りになってしまうのもかまわずに行ってみると、人影がほとんどなく、雨が降っていたのも相俟って…
アキ・カウリスマキ監督の最新作『枯れ葉』が興収1億円を突破し、日本上映で過去最大のヒット作となったとのニュースと、現在も多くの劇場でロングラン上映が続いている現象を目の当たりにしていると、我が耳を疑ったり、多少の戸惑いを隠しきれなかったり…
ケリー・ライカートの映画には、他者へのまなざしが丁重に注がれている印象をいつも受ける。現実の日常生活の中で、誰もが意識的にしろ無意識的にしろ様々な他者に視線を注いたり、一瞥したりするように、ライカートの映画の登場人物たちもストーリーに則っ…
東京オペラシティアートギャラリーの《石川真生 私に何ができるか》を観る。沖縄出身の石川真生が複雑な歴史や文化を抱え込んだ現代の沖縄を精力的に撮り続けた一連の活動がコンパクトに紹介されている。本展のメインは石川が2014年から取り組んでいる〈大琉…