《 絵ごころでつながる ー 多磨全生園絵画の100年 》:国立ハンセン病資料館

 多磨全生園の正門をくぐり、目的地へ最短ルートで行こうとした先に現れた三方向のある道標の1つに「宗教通り」という何やら聞き慣れない文字を見つける。遠回りになってしまうのもかまわずに行ってみると、人影がほとんどなく、雨が降っていたのも相俟って粛然な雰囲気が一面に漂っていた。浄土真宗日蓮宗などの仏教各宗派の施設やキリスト教の教会施設が6、7軒並んでいる。入所者の信仰ごとに造られていたと思われるが、これだけの数規模が園内に設られていることは、宗教の存在が入所者たちの精神の大部分を占有していることを示している。外部の者が想像しようとしても到底及ばないことは承知していても、どのような気持ちで宗教と向き合われたのだろうかとやはり想像せずにはいられず、神妙な気持ちで歩き回っていたら、帽子を深く被った高齢の男性が自転車をゆっくり漕ぎながら僕の横を通り過ぎていった。多磨全生園に行ったのは、園の正門から一番端にある国立ハンセン病資料館で開催中の「絵ごころでつながるー多磨全生園絵画の100年」を観るためだった。通常の絵画展ならば、いうまでもなく作品としての絵画がメインに展示されているのだが、本展は写真や資料、そして文字によるキャプション等の存在が当の絵画作品をしのいでいるような印象をもたらしていた。今からおよそ100年前の1923年10月に、第一区府県立全生病院(現在の多磨全生園)の礼拝堂で開催された「第壱回絵画会」を起点に多磨全生園の絵画活動の草創期から現在までを辿った展示になっており、現在に近づくにつれて絵画作品の数は増えている。しかしながら「第壱回絵画会」の展示作品および描き手が誰かなのかは、一切不明で記録写真も残されていない。その20年後(1943年)に多磨全生園で約40名によって戦時下に結成された「絵の会」で生み出された絵画も失われてしまい、ほとんど所在不明となっている。そのような失われた歴史(絵画史)の宿命性が先述した僕の抱いた印象につながっている。「絵の会」の活動は戦後に本格化し、1946年には書画展の開催をスタートしている。その時の記念写真が展示されているのだが、白衣の医師と看護婦(多分)が前列の中央に座り、2人の左右と後列に入所者たちが並んでいる。その無意識に行われたであろう、診る(指導する)立場とそれを受ける立場の関係以上の序列関係の構図には、社会によってつくられた階層構造が浮上し、ある種の残酷さが垣間見える。看護婦の右隣に座り、整列者の中で唯一顔を伏せている女性らしき人物の姿が印象的である(あるテキストにはその会に参加したのは男性のみであったとされているが、その人物の少しの乱れもない身仕舞いや男性陣のなかで看護婦と寄り添う上品な感じから、個人的にはそうじゃないような気がする)。医師と看護婦の両側に座っている6人のうち4人は自作(多分)を抱えている。そのひとりである瀬羅佐司馬の人物像が友人の証言などによってキャプションで紹介されている。人付き合いが悪く、変人扱いされていたらしく、「絵の会」の中でも孤立し、指導もほとんど受けつけなかったそうである。孤独に身を置く中で、一心不乱に多くの作品を描いたが、全て散失し一枚も残されていない。園内におけるサークル活動は、強制隔離によって社会から疎外され、病気や障害の苦悩を生きるハンセン病患者同士の希望的つながりや何かをつくることの創造的愉楽を目的にした側面がクローズアップされもするが、瀬羅のような個に始まり個で終わるということのほうに入所者の様態や心情の生々しいリアリティが内在しているようにも思えるのである。実作品は失われたが、唯一写真に残された自画像の作品には瀬羅の強烈な個による表現を十二分に感じ取ることができる。瀬羅の自画像の写真がそうであるように、「絵の会」の初期に生み出された作品のいくつかはかろうじて写真に記録されているのだが、そのひとつである、宇津木豊作(村瀬哲朗)の《燃ゆるボイラー》の作品には1953年の文化祭の絵画展で特選をとっただけに、写真越しながらも目を惹くような絵画的存在を感じる。機械部品やレンガ等の具体的なパーツが、それぞれの本体の一部分というより画面全体を組織する一部分として、現実的世界を超越した絵画的秩序性を形作っている(モノクロ画面を抜きにしてもそのようなイメージであることには確信がある)。多磨全生園は現在、入所者の高齢化及び減少により、将来的には終焉を迎えることになりそうな状況にある。それに並行して絵画活動も終息に向かいつつある中で、本展が企画開催された意味はとても大きいと思う。実は多磨全生園に行ったのは2回目であり、5年くらい前に行ったときは様々なタイプの入所者の居住施設が見られたのだが、現在は比較的新しい集合住宅型の建物のみが残っている(がらんどうになった広々とした空き地には数羽のカラスがたむろしていた)。園における絵画活動の最後の段階を眼前にして、跡形もなく消え去ることへの抵抗や未来へ伝承していくことの信念というものが本展に込められている一方で、入所者が意志的につくり出したものは絵画作品そのものしかないという厳然たる事実があり、入所者は自身が生み出したものは「失われるもの/手放されるもの」としての宿命を自ら背負っていたようにも思えてならない。入所者は、入所者以外のあらゆる全ての者の「他者」的意識を収斂する存在であり、絶望的な「関係性」を生きてきたのではないだろうか(他者から眺められたり、励まされたり、解釈されたりする苛酷な客体/主体)。それでも、実作品にしろ写真の中の作品にしろ、入所者の意志によって生み出されてきた数々の作品や痕跡の一片に触れることの体験を噛み締めなければならない。人工内耳や再生医療の進化によって将来的に消滅の可能性がある「ろう者」の表現者として、作品や表現に対する意志(制作/記録/保存等の複合的意味として)とは何だろうかと、自分の内にある様々な価値観(世界への捉え方や距離感等)の一つひとつにあらためて向かわせてくれるような展示だったと思う。