《 石川真生 私に何ができるか 》:東京オペラシティアートギャラリー

 東京オペラシティアートギャラリーの《石川真生  私に何ができるか》を観る。沖縄出身の石川真生が複雑な歴史や文化を抱え込んだ現代の沖縄を精力的に撮り続けた一連の活動がコンパクトに紹介されている。本展のメインは石川が2014年から取り組んでいる〈大琉球写真絵巻〉である為か、過去の写真はテーマごとに、多くはない何点かがセレクトされている感じだったが、石川の写真は初見である僕にとってはどれも興味深い作品鑑賞となった。最初に展示されている〈赤花 アカバナー 沖縄の女〉の写真作品は、一瞬だがナン・ゴールデンやラリー・クラークを彷彿とさせる若者たちのアンニュイかつ享楽的な交友関係の様相が写っているのだが(そのような若者のモチーフは数多の写真家によって消尽されたイメージにもなっている)、2人のアメリカ人の写真家が撮った光景と異なっている点は、密室空間の親密的な融合関係のなかに、アメリカ兵の男性と彼らを迎える沖縄の女性という明確な境界線が頑として残されていることである(ハーフも主要な対象として写っているが)。性別の違い、体格の桁外れの違い、人種の違い、根無し草と地元民の違いなどが混沌状態のなかで一際目に引く写真表象として具現化している。あからさまな非対称性が写っているが、別々の場所で虐げられてきた歴史を共有し、苦難の連続である現実のつかの間を享楽している黒人と沖縄の女性が一緒に写っているという、非対称の構図を超えた連帯感(同時にはかなさも写っている)にカメラのレンズは焦点を定めている。石川の写真家としての活動を開始した70年代後半ー80年代前半の写真には、夜のバー、沖縄芝居、港町の労働者などといった、沖縄に生きる大衆の日常生活をつぶさに見つめた視線が感じられるが、80年代後半以降の写真にはそのような主調の感じが次第に薄れていくかわりに、政治的な表層の断片が画面の所々に見せるようになっていく印象を抱かせる。このような印象はあくまで、本展のコンセプトに従った展示の流れからくるものでしかないが、大まかではあるものの、年代順的に展示されているのを見ると、地政学的に困難な状況にさらされてきた沖縄の歩みにピタッと並走する石川の視線の移行による必然的帰結の表れとして見ることができるのかもしれない。これは何も(芸術表現として)否定的な意味に結びつくはずもなく、沖縄人としての宿命をプライベートからポリティカルまで全方位的に受け止め、リアルで確かな視線を石川が長い写真家人生で醸成したことを意味している。〈大琉球写真絵巻〉シリーズはこれまでのドキュメンタリー調から一変し、フィクションとしての沖縄を前面に出している。動きのない表象を前提として様々な人物が写真カメラの前で演じられている。ドキュメンタリー調のままになっている画面も所々に混じっているが、そもそもカメラの前で対象となった人物は意識と無意識、大と小にかかわらず演技の誘惑から逃れることの不可抗力が生じてしまう(特にカメラのレンズに対象人物の目線が合った瞬間)。石川はその事実を大いに利用して、静止的なフィクション=演じることの導入によって写真表象としての沖縄の可能性を試みている。だが、絵巻の形式は静止の演技に時間を与えることになり、沖縄の民衆がもつ不屈の精神、あるいは精神の揺らぎが沖縄の歴史ととともに時間的蓄積として顕在化してくる。演じることは理不尽に抗うことでもあり、理不尽と付き合うことでもある(そのひとつが沖縄の真実を報道しない大手メディアであることは言を俟たない)。つまりフィクションがリアリティをもつことなのである。石川の写真はドキュメンタリーでもフィクションでもジャーナリズムでもあり、「沖縄」そのものとそこに人がいることへの意識(クールではなくホットな)を貫いているのが、石川の写真家としてのスタイルであり、沖縄人としての写真家人生なのだろうと思う。(石川の師匠である東松照明のインタビュー映像があって「おおっ!」と思ったが、字幕なしで泣く泣く断念)