《 聴者を演じるということ 序論 》:北千住BUoYギャラリー 【ネタバレが含まれているのでご注意ください】

 保険会社の上司と部下とおぼしき男女の2人が(架空の)お客さまを帰らしたあと、テーブルに着席する。テーブル上で繰り広げられる、たわいない会話劇は音声による対話(という形)で行われるのだが、演じている2人はろう者である。《 聴者を演じるということ 序論 》のタイトル通り、2人のろう者は聴者の役を演じている。テレビドラマや映画等で聴者が演じるろう者の表象が次々と発生している昨今の現象が、ろう者自身によって反転されていると言ったらいいだろうか。2人の会話劇は約10分くらいで終わりを迎え暗転したところに、本作を演出した牧原が登場する。牧原は観客に、2人の芝居にたいして修正点があれば、2人の役者に具体的に指導してほしいとレクチャーする。再び芝居が行われた後に1人のろう者と2人の聴者が観客の前に出てきて、牧原がお願いしたことを実践している。修正を施された2人のろう役者は改変した3度目の会話劇を行う。最後に、2人の出演者(數見・山田)と牧原のトークが行われている。芝居の反復、レクチャー、フィードバック、トークが連続した本作は、演劇作品なのか、それともワークショップなのか、どっちつかずの状態であったのだが、様々な要素がひとまとめにされ、観客の参加を要請する作品形態はソーシャリー・エンゲイジド・アートの一種と言っていいかもしれない。牧原によるレクチャーの後に、2度目の会話劇を1度目の時以上に意識して観察したのだけれど(1度目の時の「鑑賞」する態が、「観察」する態に急転させられる)、ろう者である僕には修正点を見つけることは限りなく不可能に近かった。なんとなくそれかな?と思ったのは1、2箇所あったような気がしたけれど、僕にとってはアイロニーとパロディーが合わさった感覚を抱きながら2人の会話劇に接していたので、観客の前に出て発表するという行為にはなかなか結びつかなかった。しかし、観客からろう者の1人が出てきて、真面目に(語弊を招きかねないようだが、「真摯に対応する」的な意味として)修正点を発表する姿を目の当たりにして、僕のなかで多少の混乱と戸惑いが生じてしまう。ろう者に続いて2人の聴者が発表するのだが、演じられる対象の聴者であるがゆえに、ろう者が演じる聴者像の不自然さについて、より真面目に的確に指摘している印象をもたらしていた。発表された修正点は大まかに言えば、聴者が会話をする時の視線の使い方、間の取り方、相手の言葉に違和感を感じた時の返し方(イントネーションの度合い等)であった。ろう者は見えるものとしての身体的動作から言及しているのにたいして、聴者はコミュニケーションとしての音声的特徴から言及している。当事者として言及する聴者の姿はこの場において、何か奇妙な感じを受けるのである。だが、聴者はろう者が発話する発音そのものについては言及されていない(もしかして口パクなのかな?と一瞬思ったが、トークで牧原が同様の発言をしていた)。音声台詞の根幹であるはずの発音そのものがスルーされている状況にたいする収まりのつかなさ、あるいはある種の居心地の悪さ。タブー化されたままフィードバックされたことは、牧原にとっては想定内の出来事だったのかもしれない。フィードバック以前と以後の会話劇には、確かに変化したところはあったような気がするが、ろう者の僕にとっては、変化にたいする認識があやふやなまま、漠然とした印象を受けざるをえなかった。しかし、こう考えることもできるのではないだろうか。「ろう者による聴者の表象不可能性」が揺るぎない事実としてあるということを。ろう者の役者が自身の声と相手の言葉を知ることなく音声の会話を演じ続けることの不条理性。ろう者と聴者の身体性の差異は、ろう者と聴者のみならず世間一般が思っている以上に微細さと深淵さが内在し、2つの身体のあいだに大きな断絶が横たわっている。視ることと聴くことのどちらかに主体が置かれることによって、異なる身体感覚や身体行為が両方の身体にそれぞれに蓄積されている。だが、そのような身体性がフイクションの空間においてどこまで機能し得るのかを考えるには、その人のスタンスや思想の問題にまで及んでしまう。

 ここまで話が来れば、自ずと昨今の社会現象としての「聴者がろう者を演じること」に再び反転されることになり、「聴者によるろう者の表象不可能性」としての事実性があらためて浮上してくるのである。しかしながら、依然として聴者が演じるろう者の表象が後を絶たないのは、(主に日本の)テレビ・映画業界が視聴率や興行面などを重視し、経済的なリスクを回避するといったマーケティングな視点に未だに縛られているからである。少なからず作品が世に出ることは大小にかかわらず流通に乗ることでもあるので、マーケット事情の面では百歩譲るとしても、何故これほどまでに「聴者がろう者を演じる」ことにためらわずにいられるのか。その理由のひとつに「フィクションとしての演技性にたいする正当性」への潜在的依拠というのが考えられる。ろう者の役にろう者の俳優がキャスティングされない現実には、マイノリティの俳優への機会の不平等という根源的な問題があり、その問題が解決されない限り、「フィクションとしての演技性」はマジョリティの権力的構造を温存するロジックとして内面化(無意識化)されることになってしまう。ろう者・手話のモチーフがある無いにかかわらず、作品を評価するのはマジョリティの聴者が中心であり、聴者の価値基準によって作品をめぐる動向が過去も現在も支配されている。聴者の価値判断に「フィクションとしての演技性」が含まれていることを前提として考えるならば、本作は、当事者としてのリアリズム=「本当らしさ」にたいする距離感、どこまで他者を演じられるのか、そこにどんな意味が発生するのか、聴者とろう者の演技は交換可能なのか、といった直接的かつ実践的な問いかけを通して、ろう者あるいはマイノリティの立場から「フィクションとしての演技性」の核心に迫っているようにも思えるのである。數見と山田による聴者役の演技は、聴者像の表層的リアリズムに徹底し、外面から(聴者の)内面に侵食(同化ではない)していくような異様な迫力を放っていた。演技そのものの緊迫を感じれば感じるほど「聴者が演じるろう者像」にたいするアイロニカルな感情が引き起こされる倒錯的な状態が役者と観客のあいだで生起しているようである。本作は参加型アートの性質を有し、カテゴリーとしての「聴者」と「ろう者」を対置しているが、二項対立の関係性を逸脱するような、得たいのしれない何かが2人の演技から滲み出ている。トーク内で、聴者を演じるための訓練に多くの時間を費やしたことが話されていたように、聴者そのもののリアリズムに徹底していたとはいえ、表層的になぞることの不確実性が前景化している。訓練に費やした時間に対するフィードバックのあっけなさは意図通りなのかどうかは牧原に聞くより他ないが、ろう者の身体で演じられる聴者像の不透明さは、言うまでもなく「聴者が演じるろう者像」の空虚さにつながっていくのである。ろう者が聴者を演じることそのものを主題とした本作には、ろう者の深川勝三が撮った映画『たき火』(1972年)の存在が大きく関わっていることが考えられるのかもしれない。『たき火』ではろう者が聴者を演じるシーンが多く見られるのだが、その不自然さがどうのこうのよりもその演技には瑞々しさが溢れている。口パクの演技(おそらくそうだろうと推測するしかないが)やサイレント映画であることを差し引いても、リアリズムの真実性を超えた「フィクションとしての演技性」への純粋な信託が現れているのだ。当事者性はリアリズムを求めることでもあるが、深川は映画が虚構の世界でしかないことを無条件に受け入れている。『たき火』の俳優はストーリー上において登場人物の固有性を演じているのにたいして、本作の數見と山田は社会的存在の「ろう者」の身体性を通して「聴者」を演じている。だが結果的に、2人の演技は社会的意味からはみ出され、數見と山田のそれぞれがなりきる虚構的人物としての「聴者」そのものが出現している。フィードバックした後の会話劇では、そのような規定外のものが回収されていくことになるが、その異様な残像は時間が経過するほどに色濃くなってくる。「演じることの他者性」が『たき火』では陶酔感と享楽さのなかで実現され、數見と山田の会話劇では緊迫した空間のなかで実現されている。「フィクションとしての演技性」は矛盾をはらんだまま「ろう者」と「聴者」のあいだを行き来している。彼岸にたどり着くことの不可能性とフィクションとしての開き直りが同時に存在することが「演じること」の本質なのではないかと思う。《 聴者を演じるということ 序論 》は、マジョリティとマイノリティ、リアリズムとフィクション、音声文化と視覚文化といった「対立」的な視点にたいして、複雑さを抱えたままの思考を促すような作品であるといえよう。