65年前の開館以来、中世から20世紀前半までの西洋美術のみを展示および収蔵(保存)してきた国立西洋美術館が史上初めて「現代美術」にフィーチャーした展覧会《ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?》を観る。国立西洋美術館は川崎造船所の初代社長でもあった実業家、松方幸次郎が西洋から蒐集した松方コレクションを母体としているのは広く知られた事実である。松方は自分のコレクションが未来の芸術家の制作活動の助けになることを望んでいたという。松方や開館当時の関係者の芸術家に対する想いが現代のアーティストにどのように及ぼされているのか、あるいは及ぼされていないのかを問うことが本展の趣旨のひとつであることは、展覧会タイトルからも推察できるものとなっている。しかしながら、松方らの想いは現代のアーティストにどちらのベクトルに向かったかといえば、一概には言えないが、及ぼされていないことのほうが大まかな印象として受け止めざるをえないのであり、またそうであることのマイナス的な要因を検証することも無意味でしかない。本展では、ほとんどが当館の所蔵作品と参加アーテイストの作品を並列展示している。その相対的関係は大きく2つのパターンに分かれることができるように見受けられる。ひとつは、(コレクションの)作品そのものに対する直接的感受性を第一にし、感応することや対峙することのみに意味や価値を見出そうとするパターン。国立西洋美術館の固有性は「所蔵作品」であることに限定され、観る者はコレクションを持つ他の美術館での表象行為に置換できる性質を持った普遍的な作品関係そのものの体験を与えられる。その作品関係は、松方らの想いに内在していた未来的志向に沿ったものとは言いがたく、遡及的視点や再帰的アプローチに意味や価値が置かれているように感じる。もうひとつは、松方コレクションのバックグラウンドや当館の内外関係や美術館の制度問題等に対する批判的意識(無意識なものも含めて)を作品表現に取り組み、作品そのものへの体験価値よりは現代社会に生きる身として作品を通して思考することへ促すパターン。こちらのほうがむしろ国立西洋美術館の固有性、歴史性、場所性を浮かび上がらせている。本展の出発点となっているはずの、松方らの芸術意識や芸術家への願望が、本展においてはからずも遠い記憶の一片に後退しているのは、松方らの周辺が芸術の未来に絵画・彫刻の従来の支持体(領域)を超えたコンセプチュアルアートやソーシャリー・エンゲイジド・アート等が出現することを1ミリたりとも想定していなかったということが考えられるのかもしれない。大雑把に言えば、「現代美術」の存在に国立西洋美術館も無関係に振る舞うことが難しくなっている状況に最前線の「場違い」や「異端」なものが堅固的な領分に雪崩れ込んできたと言った方がしっくりくるような気がする(去年の秋から今年の1月にわたって開催された《キュビスム展美の革命》は国立西洋美術館にとっては境界線上の展覧会であり、本展と一本の線で繋がっているように思う)。便宜的に2つのパターンに区別してみたのだけれど、実際は2つの間には様々な要素が入り組んだグラデーションさながらの状況が紛れもない事実としてある。だが、全体的な印象として大きく感じたのは、前述した現代美術の2つの潮流も関連しているように、美術館の展示空間が言説=エクリチュール空間と化していることである。作品の中にある思想や概念を作品だけでは飽き足らず、キャプションを作品理解の道具として互いの並置関係を強化したり、ある文脈の中の作品の位置を示す表現方法の一つとしてテキストそのものを作品化したりしている。非言語的に成立している作品もそれなりには展示されているが、本展の言説的な傾向に抗いようにも抗いきれない様態になってさえある。前回のブログで取り上げた、国立ハンセン病資料館で開催中の展覧会《多磨全生園絵画の100年》は、社会からの疎外・排除という苛酷な境遇のゆえんに絵画作品の大半が失われた事実を補うための言説=エクリチュールとして機能しているが、本展の言説=エクリチュールはそれとは大きく異なる性格を有し、作品表現との一体化、相互作用が目指されている。個人差による側面(興味・嗜好・体調等)があるので、個人的な実感だけに留めておくが、多くのエネルギーを消耗させられ、鑑賞後に疲労感と徒労感が残る体験であったことは正直に告白せねばならない(あくまで総括的なことであって、例えばモネの睡蓮の絵の欠損部分を絹糸で想像的に補完する竹村京の作品は得難く素晴らしい絵画体験だった。一方、美術展における映像作品の見せ方にはいつもながらフラストレーションがたまる)。パープルームの作品も言説=エクリチュール空間になっているが、何故か唯一心地良く感じられたのは、読ませるスタイルではなく囲まれる(眺める)スタイルのカオス的空間に徹底しているからであり、国立西洋美術館の場所性や関係性がどうした?とでも言わんばかりの自由さと清々しさが漂っている(映像作品もカオス状況の一部と化し、画面と向き合うことの性質を消去している)。パープルームが実践・継続する集団的活動行為の痕跡と蓄積されてきた思考や感性の粒子が全方位的に軽やかに飛び交っている。飯山由貴の松方コレクションへの問いかけ的作品を観た後に上階へ移動していくと弓指寛治のルポルタージュ的インスタレーションが展示されているのだが、階段近くのキャプションには、「(弓指の作品に対して)~ここで試みられるのは、けっして社会問題の告発ではない。むしろ、国立西洋美術館がこれまで見つめてこなかった世界の様相である。」の文言が表記されている。飯山のストレートな批判意識的表現と弓指の日常風景の一部を淡々と見つめる中和的性格な作品の間にこのような文言を挿入する展示構成には、たとえ偶然の結果であったとしても、企画者の内省的な結語の背後に権力側の無意識かつ巧妙なメッセージ性を読み取れないとも限らない。私が観に行った日に限って言えば、飯山の作品より弓指の作品に多くの観客が熱心に観ていたのであり、その光景にはその場を覆う情感に流される日本人の集団的同一性を感じざるをえない。観る者たちの同一性に崩れが発生する可能性を孕んでいるのは、やはりパープルームのカオス的空間である。カオス状態は無数の差異とズレを生み出し、世界の超越論的な条件のひとつにさえなっているのではないか。美術館の展覧会で言説=エクリチュール空間を展開するのなら、徹底してカオス化とならなければならないのだ(と言ってみる)。