『地に堕ちた愛』完全版 : ジャック・リヴェット

 先々月に観賞した『彼女たちの舞台』と先日に早稲田松竹で観てきた『地に堕ちた愛』(『彼女たちの舞台』と同じく20年以上ぶりの再観賞だが、今回は3時間の完全版)は、どちらもジャック・リヴェットによる「演劇」を主題に用いた作品である。「女優」に特化したキャスティングや作品に一貫して通底しているミステリアスな雰囲気は共通しているが、「演劇」においての決定的な違いが存在する。『彼女たちの舞台』では、リハーサルしか描かれていなかったのにたいし、『地に堕ちた愛』では、実際の上演が序盤と終盤に2回行われ、そのあいだに挿入された1週間のリハーサルが創造の秘密と屋敷内に潜む謎を漸次的に明かしていくような構造になっている(言うまでもないが伏線回収とは別の次元にある)。実際の上演が扱われているのだが、劇場のような非日常空間ではなく、現実の住居といった日常空間を舞台にしたアパルトマン演劇が、序盤には都会の建物の中で、終盤には郊外の屋敷の中で行われている。観客はスタッフに誘導されながら、役者の芝居を現実のプライベートな出来事を覗き見(盗み見)るかのように観賞する。序盤の上演と終盤の上演は同じ3人の役者によって成り立っているものの、映画内においての意味は明らかに異なり、様々な出来事や複雑な人間関係と並行するリハーサルが1週間の時間と閉鎖的な空間(シャルロットはその閉鎖的な空間に耐えられず街へ飛び出してしまう)を通して、映画のクライマックスに解明される最大の謎を導き出すというのが終盤の上演なのである。序盤の上演では、シャルロットとエミリーとシルヴァーノの男女の役者同士の限られた人間関係や3人それぞれの人格の提示に留まっていたが、終盤の上演に向けられたリハーサルでは、3人の人間関係が劇作家のクレマン、マジシャンのポール、使用人のヴィルジルの一癖も二癖もある男性たち、あるいはベアトリスという女性の不在の影と濃密に関わることによって、3人、主にシャルロットとエミリーの女優2人を取り囲む不可思議な世界へ拡張されていく。エミリーはリハーサルの時は女性としての普段着のままでいたのが、実際の上演では唐突に男装としての姿を現す。そのような差異の顕現はリハーサルから実際の上演に移行するときの衣装の変化であり、リハーサルしか描かれない映画では表現できない類のものなのかもしれない。エミリーが男役をすることはそれまでの会話の中で知らされるのだが、ジェーン・バーキンの男装の唐突さと(表層的)意外性は作品のなかで素晴らしい効果を生み出している。リヴェットは映画のなかで、「演劇」とは何かを描写してみるというよりかは、リハーサルという現実と虚構が入り混じるような時間の経過を多層的拡張的に描写していくことによって「映画」的な時間を創造していると言えるのではないだろうか。実際の上演の完結性と有限性にたいし、リハーサルは未完結性と果てしない無限的な性質を有している。つまり、不安定な状態を持続しているのであり、そのなかに置かれた役者たちは実際の上演の時以上に生々しく脆弱な身体そのものが剥き出しになっていたり、人間関係や現場の環境に次から次へと翻弄されたりしている。その雑多な感情が移ろっていく状態が広い屋敷内のところどころで繰り返されているのは、まさにリハーサルそのものであり、その不安定な時間をリヴェットは積極的にフィルムに焼き付けている(だから、リヴェットの映画の多くは上演時間が長いものになっている)。リハーサルの反復と隙間の侵入は役者の演技を「解体」された状態に置く。それによって生じる綻びが役者たちを曖昧な存在、あるいは断片的な状態にしているのであり、不安定な状態や時間と相乗している。「解体」されたシャルロットとエミリーはポールとの一時的な愛の戯れを同時に(順番に)行ったり、覚えられない台詞を代わって演じたりする。街から屋敷に戻った酩酊のシャルロットは庭にあった天使の石膏像を落としてしまう。リハーサルによって「解体」された自身の状態が粉々に割られてしまった石膏像の姿に自らオーバーラップしたのである。だが、クレマンからの依頼仕事を終えたシャルロットとエミリーが翌日にリセットされたかのような清々しい表情で屋敷を出る時に、カメラはヴィルジルによって再設置された新しい天使の石膏像を移動撮影で捉える。つまり次なるシャルロットとエミリーが屋敷にやってきて再び「解体」される時が来ることを暗示しているかのようである。「解体」と「構築」の繰り返し=リハーサルがいつ終わるとも知れない時間のなかで不安定に続いているのが今日の、あるいは過去から続いている「世界」のありようなのである。