「㊙色情めす市場」

先日ついに、日活ロマンポルノいや日本映画の大傑作「㊙色情めす市場」(田中登)を観ることが出来たのだ!あまりにも凄すぎて映画を観終わった後、しばらくのあいだ席を立つことができなかった。いきなり冒頭シーンから衝撃を食らってしまう。やや荒々しい肌理のモノクロ画面がまずアップの通天閣を映し、その後ズームアウトしながら大阪のパノラマ風景が出現する。これだけでもゾクゾクするのだが、このワンシーンワンカットはまだ終わらず今度は逆にズームアップしながら、場末の路頭の石壁に寄りかかる2人の女性を捕らえる。このカメラの一連の動きはまさに映画的な運動であり、感覚的にもう素晴らしいというほかない。路上生活者のたまり場であるあいりん地区で母とともに売春業を営むトメを演じる芹明香の存在感は、達者な演技力とか人生張り付いたリアリティな姿とかいうような役者とか人間のレベルを遥かに超えてしまい、もはや神の域に達している。映画撮影の直前に実際に暴動が起こったというあいりん地区のただごとではないヤバさや極度の緊張感を孕んだロケ地のなかで、ひたすら闊歩するトメの姿はほとんど芹明香という実在の人物を丸出しにしたまま、完全にカメラを意識していないかのように振舞い、この地に生きる娼婦としての決然とした感じが映画の内外にある現実と虚構を超えてみなぎっている。

終盤近くにトメは精神薄弱者の弟に身体を最後まで委ねてしまうのだが、交わった直後、蜃気楼にゆれる太陽のシーンを機に映画画面はモノクロからカラーへと転換する。カラーの部分のなかで弟はニワトリをヒモでくくり付け大阪の街を延々と彷徨い(途中にベタな絵葉書的な大阪市内の名所のショットが織り交ぜられるのだが、何故か違和感を感じることなく自然と受け入れることが出来た)、しまいにはゴーストタウンの空中で首をくくって死んでしまう。その場にたどり着いたトメは涙ひとつ流さず、目の上にぶらさがっている弟の死体を無表情に見上げるだけだ。その後再び画面はモノクロに戻り、トメもこれまで通りに街のなかで無差別に拾ったあまたの客と性交を繰り返し、通天閣の見える空き地で使用済コンドームをリサイクルするおじさんの隣でスカートを広げながら無心にクルクル回る、とても印象的な場面でこの映画は幕を閉じる。前半から中間と終盤のモノクロのシークエンスに挟まれたカラーのシークエンスは、弟と交わったことによって宿命的に定められている退廃的生活のなかでトメの心境に変化が起こったことを表象している部分のように思える。だが、そのわずかな希望も弟の死亡によってあっけなく消えてしまう。というよりも弟の死亡もあらかじめ決定されたことであって、再びモノクロに回帰するその循環にある堕落的な生活、あるいは娼婦の母(花柳幻舟の怪演ぶりもすごい)をもつということがトメにとっての永遠に変えることの出来ない人生の様相なのである。ラストシーンでクルクル回ることによってトメは自分の現在を否定も肯定もしない、ただこの場を生きるしかないのだという感情を表現している。その姿は絶望さと崇高さが表裏一体となり、俗世間を超脱した姿でもあるように僕は感じる。とまあこのように勝手に思考整理された言葉うんぬんよりも、スクリーンに映るただの<表象>として見る時(少なからずこの<表象>に物語の背景がつきまとうにしても)、モノクロ画面のなかの堂々と屹立する通天閣とクルクルと回りながらスカートをなびかせる華奢なトメの異質にして対照的な組み合せは、ずっと僕の記憶に残るだろう。