『ゴッホ 〜最後の手紙〜』

ゴッホの絵画が動きだし、ゴッホの謎に満ちた死の真相の解明へと物語と画面が相互にうねり続ける、奇妙な感覚を醸し出す映像は最新のCG技術とアナログな油絵の手法を組み合わせることで生み出されている。俳優たちが役を演じる実写映画として撮影された後に、その映像が投影されたキャンヴァスに各国から選ばれた画家たちがゴッホ風のタッチで油絵へと置換する。本編の1秒は12枚の油絵を撮影した写真で構成されているとのことであり、このアニメーション映画は気の遠くなるような制作過程や作業量をもって積み重ねられている。ゴッホ風のタッチを習得した職人的画家たち(その人数はなんと125名!)はおそらくシーンもしくはシークエンスごとや登場人物ごとに役割分担されていると思うのだが、場面や人物が入れ替わるたびにゴッホ風のタッチも微妙に異なってくる。その連続体のなかで起こる差異をしばらく目の当たりにしていると、僕の予定調和にあった視覚の感覚に狂いがじわりと生じてくる。感覚が狂うというよりも別の感覚が出現し軋轢を生んでいるような感じなのかもしれない。ゴッホ風タッチという共通コードのもとにある微妙な差異が見る者の平常感覚の損壊を先延ばししている(モノクロの回想シーンの異質さには感覚が一時的にフリーズしてしまう)。イラスト加工のアプリやソフトを使えばタッチを統一できることもありえたかもしれないが、あえて人間の筆致によるタッチを使うことでマチエールの凸凹や行為の固有性からノイズが発生する。ゴッホが生きた時代にさかのぼる人間的ノイズでもある。動く絵画はノイズの蓄積をエスカレートしていくが、それが決壊することもないという宙吊りな感じが最後まで消えることはない。そのノイズに対する不確かな感覚は、ゴッホが遺した手紙をきっかけにゴッホの実像に迫りにいくアルマンがガジェ医師の謎めいたはぐらかしによって最後まで答えを見出すことができなかったことと並行している。アルマンの感情と見る者の感覚が時空間、虚構と現実を超えて一続きしている。1秒24コマが人間の時間的感覚に近いことを前提とすれば、このアニメーション映画はその半分の時間が抜けている。ゴッホ風タッチを施された登場人物はあくまでも現代に生きる役者であって、ゴッホの絵画の人物の表象とは解離しているが、まるでゴッホの絵画からそのまま出てきたような錯覚の強度を持続している(貸しボート屋の男性は風景のなかに小さく描かれた人物から拡大したほぼ架空の人物である)。時間の欠落やゴッホ風のタッチの塗り重なりは虚構が虚構を重ねていく痕跡でもあり、その裂け目や空洞にゴッホの真実(ゴッホの狂気)を抱えたまま、全てが不透明なまま絵画と映像の表層だけが永遠にうねり続ける。
https://www.youtube.com/watch?v=CGzKnyhYDQI