2015-01-01から1年間の記事一覧

「FOUJITA」

藤田嗣治の恰好をそっくりに扮したオダギリジョーがイーゼルの前に屈んでモチーフを見つめる。そのフォルムに惹かれて小栗康平の映画を初めて見たのだが、スクリーンに映る世界観は最後まで僕に映画的快楽をもたらすことはなく2時間がとても長く感じられて…

「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

現代特有のせわしさやドライな感覚が初老の大女優の身辺をどこまでも取り囲んでいる。アルプス山脈に向かう列車のなかで、マネージャーの若い女性はひっきりなしに携帯電話を耳にあてたり、画面をいじったり、あるいは廊下を行き来したり、と常にせわしくし…

「上海から来た女」

オハラ(ウェルズ)のけだるい表情はスクリーンに最初に現れたときから終始くずれることなく、海に向かって彷徨う後ろ姿を俯瞰ショットが後退するゆるやかな動きを持続させながらジ・エンドの文字が重なっていく。けだるいのはオハラの表情だけではない。序…

遺影と運河の二つの絵

安保法案が強行採決された翌日、国会前の熱気を伝えるニュースが流れるなか、僕はいてもたっていられない気持になっていたが、なかば受動的に国会とは逆の方面にある群馬県桐生市に足を延ばし大川美術館の「戦争の時代を生きた画家たち」を観に行く(半分非…

マックス, モン・アムール

外交官(ピーター)の住む高級感漂う部屋に一匹のチンパンジー(マックス)がいるという滑稽な光景。言葉をもたない類人猿のまわりで人間たちは言葉を飛び交わすのだが、チンパンジーの沈黙と並列に置かれたあまたの言葉は何を言っても無意味でしかないかの…

サイ トゥオンブリー

文字そのものではなく、文字が連なって意味が発生しかけるような空間が絵を描くことを目的とした紙の上に繰り広げられたとき(あるいは美術館で展示されたとき)、現代美術に慣れているつもりでも、やはり僕の頭のなかにある視覚野に多少の混乱が生じてしま…

「サーキュレーション ― 日付、場所、行為」

東京国立近代美術館の2階にあるギャラリー4の展示はわりと好きだ。1階のメイン企画展が霞むくらいの刺激をくれる時がある。現在の展示は「事物/1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード」。パリ青年ビエンナーレに出品した中平卓馬の「サーキュレ…

「ザ・トライブ」

テオ・アンゲロプロスとレオス・カラックスを足して2で割ったような映画というのが率直な印象だ。ロングショットによるワンシーンワンショット(長廻し)で登場人物の動きを固定画面で捉えたり、移動撮影でゆっくり追いかけるのだが、登場人物はマシンガン…

「奇蹟」

久しぶりにとても濃い読書体験をする。中上健次の『奇蹟』である。中上の独特の文体は読みづらいのだけれど、一気に読み入る時が周期的にやってきて麻薬のような中毒性がある(もちろん麻薬の経験などあるわけないけど)。イクオ、シンゴ、カツ、タイチの「…

「アメリカン・スナイパー」

エンドロールには実際の映像らしきものが映るのだが、走る車のなかから撮影された沿道にはおびただしい星条旗が灰色のなかで雨に濡れながら弱々しくはためいている。この映画の主人公はクリス・カイルではなく星条旗である。カウボーイから転身し、イラクで1…

イメージと感性 その2

前回のブログで書いたことをあらためて整理してみる(「セザンヌともろもろの人間は同じ知覚体験を共有〜」は「セザンヌともろもろの人間は近似的知覚体験を共有〜」に訂正)。 見る者の視線は第一の対象物に向かう。第一の対象物に届くと、視線は角度を変え…

4人のモデル

タイトル未定 キャンヴァス/油彩 S50

イメージと感性

誰かによって既に見られたもの、誰かによって既に切り取られたものを自ずと受け入れる。現代に生きる人の感覚はそのようにしてある。初めて目にした風景や事物でも以前にどこかで見たことがあるような感じに襲われるときがある。日常的に既視感がつきまとう…