「上海から来た女」

オハラ(ウェルズ)のけだるい表情はスクリーンに最初に現れたときから終始くずれることなく、海に向かって彷徨う後ろ姿を俯瞰ショットが後退するゆるやかな動きを持続させながらジ・エンドの文字が重なっていく。けだるいのはオハラの表情だけではない。序盤のオハラと美女エルザ(ヘイワーズ)の出会いから中盤のヨット旅行までのくだりは、退廃的な時間が延々と流れていてどの登場人物も人生を投げやりにしている感じであり、モノクロ映画ということも相俟ってスクリーンに映る全てのものが生気を失っている。だが、恐ろしいことにこの映画はもともとは2時間半の長さをもっていて、僕が見ていたのは約1時間分のフィルムをカットされた現行の87分バージョンである。製作者が手を入れるまえにウェルズはこれ以上の非生産的な時間をフィルムに導入していたかもしれないのだ。フィルム・ノワール映画にも分類されるこの映画ではあるが、ウェルズは一体何を撮ろうとしていたのだろうか。他者の手によって短縮されたストーリーはいまいちよく分からなかったのだが、どうやらオハラはエルザの旦那である弁護士のアーサーやその共同経営者であるグリスピーにハメられ、殺人犯として逮捕されてしまうのだが、相変わらずオハラは為すがままの態度でありエルザだけを虚無的に眺め続けている(当時ウェルズとヘイワーズは夫婦であったが、この映画の撮影後には離婚することになる)。真偽の言葉が入り乱れる裁判を抜け出したオハラが中国人街で再びエルザと二人きりになったあたりから映画のリズムは変化し始め、言葉によるストーリーからイメージそのものへと映画の質も劇的に変化していく。あまりにも有名な遊園地の鏡の部屋で撃ち合うシーンはイメージの強度が天文学的に突き抜けていて、脳震とうを起こすくらいに見る者の感覚は強烈に揺さぶられてしまう。製作者の手が一ミリたりとも触れることが出来なかった唯一のシーンなのかもしれない。幾重に張り巡らされた鏡の空間のなかで、オハラとエルザとアーサーは自ら無数の亀裂を派手に入れることによって自己のイメージの分裂と増殖を繰り返し、互いの虚像を行き着くところまでに破壊していく。だが、奇跡的に生き残ったオハラは最初から自己と主体とは無関係に巨体をもてあましているだけのゆえに分裂的空間を擦り抜けて、海の彼方にある終わりのない空洞に導かれていく。オハラの受動的行動をうながしているのはアーサーでもグリスピーでもなくエルザへの愛ただひとつのみであるが、その愛は主体的なものではなくエルザに一目惚れしたというその時の情動的なものが引き伸されたにすぎない。エルザのファム・ファタール的告白を受けても動揺することなく、最後まで消えることのなかったけだるい表情がそれを物語っている。

鏡の部屋のシーンは小道具の鏡のみならずオーバーラップの編集によってさらにイメージの重層化をはかっているのだが、その合間に静止画像が埋め込まれている。画面全体でオーバーラップがかかって運動しているなかで、画面の一部だけが固定されたままになっているのを見ると奇妙な感覚が生じる。時間が経過する運動イメージのなかである部分だけ時間が止まっている。オーバーラップは映画の虚構性を肯定的に表出する技法であるが、オーバーラップのなめらかな運動は映画の世界と見る者の感情をスムーズに連結する。だが、運動イメージのなかに出現する静止画は亀裂の発生であり、見る者のイメージ感覚を宙吊り状態にする。運動と静止が同時に併存するイメージの乖離はオハラとエルザの二人の関係そのものなのかもしれない。

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