「運命のつくりかた」

10年後のセックスはとても感動的だ。大自然のなかで突如の再会を果たし、マリリンは暗闇のなかの娘から「ママ」と呼ばれ、ボリスは2階で昔の自分に戻るかのようにヒゲを全部剃る。ボリスの恋人(セフレ?)がいるなかですべてが運命ではない運命に導かれていき、エクスタジーのクライマックスを迎えようとする。非日常的で荒唐無稽なシークエンスだが、うかつにも目元がうるうるするくらい僕が感動してしまったのは、ストーリーの流れでも、俳優の演技でも、ミュージガルでもなく、2つの時空間が交錯する映画独自のリズムを生み出すオーバーラップによってである。映像運動による視覚的感動、これだけで映画は十分感動を与えることができる。その証拠にあまたのサイレント映画ダグラス・サークの映画を見ればいい。セックスシーンとセックス以後のヨリを戻した(?)2人と子供たちの日常風景が空前絶後ともいえる驚異的な長さでオーバーラップしていく。ビジネスで2人が初めて出会った時に、別れ際にマリリンが駆け出しの映画監督であるボリスに「ふたつの映像を重ねる手法を何ていうの?」と聞く場面があるように、この映画はオーバーラップがキーワードとなっているようだ。ラリユー兄弟の荒唐無稽な演出から出現するあまりにもバラバラな挿話、突飛なイメージの断片がラストのたった一回だけのオーバーラップによって無限大なイマジネーションの到達点に束ねられていく。映画と人生を豊かにしていくにはオーバーラップが不可欠なのであり、それは理性のロジックより感情の純粋性が勝る。ダグラス・サークのオーバーラップが不条理、絶望を突き抜けたところに出現するのならば、ラリユー兄弟のオーバーラップは人生の謳歌のただなかから出現するとでも言えばいいだろうか。

それにしてもこの映画はめまいがするほど、奇妙きてれつな映画だ。ミュージカル風に唐突な出会いを描くかと思えば(フランス映画の伝統?)、遠回しな会話が繰り出される(運命をつくるにはたしかに遠回しな駆け引きが必要かも…)。しまいには即物的なオオライチョウの求愛行動の場面が延々と映し出される(アレゴリーを越える大自然の生々しさ)。恐るべし、ラリユー兄弟!!