2つの津波映像

東北関東大震災発生から2週間を過ぎた現在、被災地は依然として厳しい状況のままだ。東京では余震の回数が徐々に減ってきてはいるものの、放射能による目にみえない恐怖や「無」が付く計画停電などに振り回されていて、落ち着かない日々が続いている。地震発生以来、僕は映画をまだ一本も見ていない。地震が起こる前に最後に観た映画は、偶然にも現在上映中止となったイーストウッド監督の「ヒアアウター」だった。この映画の前半に津波のシーンが描かれているため、今回の大震災の影響を受けて観られない状況にいたっている(「ヒアアウター」を見終わった後、新宿ピカデリーの急勾配のエスカレーターを降りる時、踊り場の壁には同じく上映中止となった映画「唐山大地震」のポスターが掛けてあった)。「ヒアアウター」に描かれた津波のシーンでは、世界最高峰のハリウッドで制作されただけにCG映像による本物の津波が来たかのようなリアリズムを十二分に体感できたことは確かなのだが、我々は現在の映画のCG画面に慣れすぎてしまっている。だから、岩手県の入り江にある市街地を襲う津波の映像をニュースで見た時は、「まるで映画のようだ」と咄嗟に感じてしまった。しかし、ハリウッドの最高レベルのCG映像よりも一般市民による家庭用ビデオカメラに収められた本物の津波の映像のほうが何倍も凄かったことは言うまでもない。真っ先に映画のようだと驚嘆し、次に現実に起こった出来事であることの生々しさに再び驚嘆する。この本末転倒な映像に対する順序の感覚が、現在に生きる我々にとっては当たり前の感覚になってしまっているのだろう。だが、家庭用ビデオカメラを持った当人は、同時に映像を介しない肉眼で実際の津波を目の当たりにしただろうと思うのだが、その時の現実的な感覚は「映画のようだ」と感じた東京にいる僕が絶対に想像することの出来ない次元の空間を漂ったに違いない。肉眼による光景とカメラによる光景が同時的であったとしても、当人の脳内にある記憶と記録された映像は全く別物であり、その両方のあいだには映像による表象不可能性の問題が存在している。映像と身体の永遠に埋められない絶対的な感覚的差異。市街地を襲う津波を撮ったあとにカメラは手ぶれをともないながらパンし、高台に避難した住民が呆然と立ち尽くす様子を収めるのだが、そのあまりにも絶望的な光景の映像は津波の映像以上に強く印象に残るものになってしまった。しかし、被災地の人々は大変な困難のなか立ち直り、新たな生活への一歩を踏み出していくだろう。