『フェミニズムと映像表現』:東京国立近代美術館2F ギャラリー4

 東京国近美のギャラリー4の展示、『フェミニズムと映像表現』を観る。フェミニズムのテーマに合わせて、東京国近美のコレクションの中からセレクションし、映像作品のみで構成された展示になっている。入り口近くのキャプションによると、フェミニズムの歴史(英語圏を中心とした)には4つの波があり、19世紀末から20世紀前半の第一波、1960年代にはじまる第二波、1980年末からはじまった第三波、2010年代以降の第四波と区分けされている。第二波の1960年代から70年代はテレビの普及やヴィデオ・カメラの登場によってメディア環境が急速に変化した時代であり、過去から男性優位の社会構造から受けてきた性差別と抑制、社会の中で醸成されてきた歪な女性像や自身の複雑な女性性への対峙が映像表現によって発信されはじまった時代である。第一波と第二波の間隔は約50年の長さがあり、やはり公民権運動とテレビが主流になったメディア社会による化学反応がウーマンリブを再び活発化してきたともいえる。本展では第二波の1970年代に制作された映像作品が大半を占めている。テレビの料理番組をパロディ化したマーサ・ロスラーの身体は、女性の場所とされてきたキッチンにある調理器具をひとつずつ取り上げ、調理器具の名前を告げたあとにその器具の本来の用途を逸脱したアクション(料理番組の固定された立ち位置のままで)を繰り返す。無機質な発声によって読み上げられる器具の名前がロスラーの荒唐無稽なふるまいと結びつくことによって、女性性とセットされた記号作用が解体されていく。つまり、ロスラーは女性性の解放とともに記号の恣意性を取り戻したのである(社会性を外した記号そのものへ)。だが、狂気じみたアクションを終えた後に器具を元の置かれた位置に戻すときのロスラーの丁寧なしぐさがキッチンという空間の中で行われたことで、女性性が内面化された社会的な身体がしぶとく残されている現実的な女性表象を垣間見させられもするのである。記号の発語、コンテクストから逸脱した動作は「反復」されることで、女性像・女性性の表象に亀裂を入れる、あるいは解釈し直すフェミニズム的表現(要素)は、テレビドラマ「ワンダーウーマン」の映像を断片化し再構成したダラ・バーンバウム、自分自身の身体が映し出された画面のズレをコマ落とし的に流し続けるジョーン・ジョナス、マトリョーシカのように自身の頭部を幻惑的なノイズイメージの中で増殖させるリンダ・ベングリスといった70年代の同時代の女性アーティストたちの映像作品にも共有されている。男性が長い歴史の中で培ってきた社会的慣習のひとつとしての女性像(女性の役割)、マスメディアが流す一方的な表象としての女性像(女らしさ)は、「反復」されることで堅固な価値観やイメージを形作ってきたが、逆に女性たちもフェミニズムの思想や活動、そして女性アーティストならではの表現を実存的にあるいはイメージ的に「反復」し返すことで、男性たちがつくってきたそれらに抗い続けてきた(いる)ともいえるだろう。思想や概念のみならず、女性の身体という実体的なものを身体行為や問題提起の中心に据えながら様々なバリエーションの映像を形作っている。

 4人の主婦たちが卓上の図形を前に前日の1日の行動について話し合う出光真子の作品と、2人の女性が粘土をこねて何らかの形を作ったり壊したりしながら会話を続ける遠藤麻衣と百瀬文のコラボ作品にも「反復」的な要素は見られるが、先述した70年代の西欧の女性アーティストの作品と比較するとすれば、「対話」的要素がそれを上回っていて、言葉を発話する表現形式が同時録音をともなう映像媒体の上で、最大限に活かされている。出光と遠藤×百瀬の両作家の対話的作品は、画面外からの音声の流入と話者の姿の不在の代わりに腕手のみが画面に映る。卓上の図面の駒を動かす時のみ出現する断片的動作と終始粘土をこねくりまわす継続的動作の意味以上に、両者の腕手の役割は会話の内容と密接にリンクしていて、きわめて対照的になっている。日本の家族制度に縛られた行動パターンを共有されていることを明かしていく4人の主婦たちの無邪気な会話と無機的かつ制限的な腕手(手指)の動きに対して、作家本人たちが「理想の性器」についてライトに喋りながら粘土をこねり続ける有機的な運動には、性別における社会的視点から性器にまつわる自己と他者の内面的な視点へと新たな次元への移行がオープンな表現になってきたことが示唆されている。2人の対話を音声ではなく作品鑑賞後にテキストを読む形をとった自分は、作品鑑賞中は、粘土をこねながら形を作ったり壊したりする2人の腕手(手指)の動きに視線が一点集中する結果を得ることになる。発話から切り離された腕手の動作そのものにはエロティシズムの意味が肥大化し、性が解放される感覚とパーソナルな感情(男性的なもの)の二面性が鏡像のように巡りめぐっていくような視覚体験であったことは、大いに戸惑うべきなことなのか、自分の特権として知覚の内にしまうべきなことなのかは、未だに収拾できないままだ。