『アジアにめざめたら』

東京国立近代美術館で『アジアにめざめたら』の展覧会を観る。金曜日は通常17時の閉館時間が20時になっているので、退社後の時間を利用して観に行ったのだが、全然時間が足りなかった。思いのほか映像作品が多く、さらっと観て途中で切り上げることがなかなかできない興味深い作品がいくつかあったのは、嬉しい誤算であり金曜日の退社後に行ったのは失敗だった。サブタイトルの「アートが変わる、世界が変わる 1960−1990年代」にあるように、植民地支配からの独立を経て、急速な近代化や民主化運動の高揚に引き込まれたアジア各国のアーティストたちは、近代美術から現代美術への転換期において、従来の絵画や彫刻という形式を超えた多種多様な作品を生み出してきた。会場全体を振り返ってみれば、やはり政治的な抑圧に対する表現や直接的な抵抗を生々しくあらわにする表現が多く、欧米圏が辿ってきた「美術」の概念や制度の影響を受けながらも素朴な次元にとどまっている印象を受ける。つまり何というか歴史の重厚さや神経質なアプローチを飛躍し、アーティスト自身が直面する現実や日常生活的環境のなかで、西洋由来の美術形式を大いに利用しつつ、屈託なくアジア的融合が展開される明朗快活さとでもいえばいいだろうか(語弊があるかもしれないが)。中国の作家、林一林(リン・イーリン)のパフォーマンスを撮った映像作品は、車が行き交う大通りで作家自身がコンクリートブロックを積み上げながら壁を作る行為を固定ショットとノーカットで延々と撮っただけの記録映像である。にもかかわらず、強度をもった映像作品として完成されているのは、壁の端のブロックをひとつずつ取り上げ、反対側の壁の端に移動しながら積み上げるループ的行為が大通りのなかで行なわれるスリリングと緊張感を生み出し、道の向こう側にビル(?)の工事現場があり、ブロックを積み上げる行為との関連性がひとつの画面に凝集しているからである。変化し続ける都市の現象と一個人のパフォーマンスの表象が互いにリンクする都市と人間の関係性があり、異化作用によって都市の時間と空間に裂け目を発生させている。中国、シンガポール、タイ、韓国などのアーティストたちは多岐にわたる表現をそれぞれの独自性をもって獲得しているが、同時にアジアという磁場、アジアという文脈から共振し合っているようにも感じる。だが、同じアジアのなかで日本人アーティストの作品だけが異質な感じを受けざるをえなかったのは、日本人である僕の個人的な主観に過ぎないのだろうか?なかでも特に、ゼロ次元(監督は加藤好弘)の記録映画『いなばの白うさぎ』は前近代的なカオスと下劣なエロスが錯綜していて、悪夢ともいえる光景を見させられているようだった。学生運動の熱気が満ちた人混みや街中で、大人数がムカデ状に連なって、ゆるいテンポで片足を交互に上げて前進するへんてこな踊りから、砂浜海岸で裸の男女が四つん這いの列をつくる神話的空間(パロディ?)に移り変わっていく一連の流れには強烈な中毒性があり、2回も見続けてしまった。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/asia/