『寝ても覚めても』

寝ても覚めても』を観る。柴崎友香の原作を先に読んでから観ることを考えていたが、計画的行動は苦手ではじめからうまくいくはずもなく、とにかく濱口竜介の映画の初鑑賞を済ませなければという気持ちが先行し、他の所用のあいまを見計らうようにして何の予備知識も持たずにスクリーンの前に座ってしまった(観賞後に字幕メガネの貸出があることを知った…)。だが、僕の思っていた以上にこの映画は視ることのアグレッシブが全篇に行き渡っていた。どこか影のある雰囲気を華奢な身体にまとう朝子は、美術館へ入る直前に出くわした爆竹の遊興に写真展を鑑賞した後、再び出くわす。朝子は写真展会場ですれ違った刹那的な感じのある青年(麦=ばく)の後をついていくのだが、川辺の階段で向かう方向が分かれ、青年に対する心情を封印するようにして向きを変えたその時、二人のあいだで爆竹が爆発するのと同時に画面はスローモーションに変化し、爆竹音に反応しお互いに振り向いた青年と朝子の目が合う。のちに起こる青年の唐突な接吻よりもスローモーションの中で生じた視線の交錯からくる新しい形の荒唐無稽さによってこの映画が尋常ならざるものであることに身震いしてしまう。唐突な出来事は日常のなかでは良くあることだが、非日常的な時間の流れに視覚を通して身を任せるのは映画表層の上でしか出来ない。運命の出会い、つまり情動的な出会いは物理的な事象を知覚し、動作につながった結果としてあらわれている。麦が突然行方不明になった2年後、朝子は麦に顔がそっくりな亮平と出会うのだが、亮平の会社の隣の珈琲店で働く朝子は落下する雨粒に気づき、空を見上げるときに、ビルの何階かにある外階段の踊り場で一服する亮平とまたしても(見た目がそっくりな外見的表層によって)目が合うことになるのだ。そして極めつけに、大阪時代の友人と7年ぶりの再会をした朝子はビルのレストランの窓越しに見上げるような位置にある巨大広告に麦の現在の顔が出現し、目が合った瞬間から、潜在していた過去に培われたある感情の堰が音を立てて崩れはじめる(イメージを突き抜ける情動の暴力性)。このようなマテリアルと視線の知覚作用による物語の進行(あるいは物語の変化)は、映画内の出来事以上に映画を形作る映画の視覚的構造の一部となり、サイレント映画の主に役者の身体による指向性を想起させる。地震の場面もダイレクトな事象そのものを画面に描写しているのであり、ただごとではない事象に対して身体全体が知覚することに重きを置いている(やはり地震が起こった後、亮平と朝子は久しぶりの再会を果たすことになる)。だが、恋する人たちの気持ちは不可視のままであり、ラストのベランダで視線を交わすことなく同じ方向を見つめる亮平と朝子の並行する立ち姿の不明瞭さはベランダの向こうに広がる風景の奇跡的な美しさに包まれたまま、現実とも虚構ともつかない次元へ雲散霧消していくかのようだ。
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