イメージと感性 その2

前回のブログで書いたことをあらためて整理してみる(「セザンヌともろもろの人間は同じ知覚体験を共有〜」は「セザンヌともろもろの人間は近似的知覚体験を共有〜」に訂正)。
見る者の視線は第一の対象物に向かう。第一の対象物に届くと、視線は角度を変えて第二の対象物に向かう。視線はさらに第三、第四、第五の対象物に当たって向きの変化を止めることなく細分化した視線の軌道が最初の第一の対象物と見る者の関係を取り囲む。この円環的空間だけではなく対象物の境界面の角度によっては視線が四方八方に分散し、第一の対象物をするりと通り抜け(透明性)、見る者自身に跳ね返るといった視線の無限性が見る者と対象物の空間を拡張する。対象物と対象物のあいだ、対象物と見る者のあいだで視線の運動が複雑化し、視覚というひとつの知覚からあらゆる知覚全体へと感覚が波及していく(セザンヌの色彩のタッチ)。つまり見る者を取り囲む対象物の外部性から見る者の内部性へと感覚の移行がおこなわれる。これが現前性の感覚を生み出すプロセスのひとつになるのではないかと思う。対象物の実体性からくる現前性の感覚はセザンヌがそうしたように感性(感覚を生み出す能力)にたいする意識を集中していくと、豊かな感覚、生きた感覚のようなもの(僕は想像するしかないので)に昇華していく。しかし、僕の身体は現前性の感覚よりイメージの感覚を優先してしまう。イメージは非実体性であり、非実体を対象とすることは、空虚そのもののなかに自ら入っていくということである。空虚を意識することは観念することであり、イメージと記号の連続空間、歴史的文化的連続空間のなかに身をゆだねていく。イメージの感覚は感覚の交わりではなく感覚の一方通行である。絵画制作のなかの僕とキャンヴァスの関係は物理的には垂直関係ではあるが、映像と絵画のイメージを扱う感覚(平面的感覚)はどこまでも交わらない平行関係のなかで生じる。観念だけがイメージのなかに入っていく。イメージの感覚は感覚そのものではなく世界(社会)との関係に縛られたさきに平らな空間に放り出された観念の残骸のようなものである。既に切り取られたイメージを引用するという連続的行為は自己のイメージの形成より他者のイメージを追随する。だが、イメージのなかで(フレームのなかで)想像する身体は自律性をもってかろうじて残っている。世界との関係性と自己の主体性がないまぜになったまま、次のイメージを生産するのだが、イメージをイメージたらしめるのではなく、イメージにくさびを入れてみる。何によって?もちろん自身のもつ感性である。イメージの連続空間に自身の身体的な轍を残すことによって非連続空間が生起することが出来ればと考えている。映像イメージと絵画イメージのあいだで揺らぐ自身の絵画制作はイメージと身体性、自己の主体性の問題を問うことでもある。