「アメリカン・スナイパー」

エンドロールには実際の映像らしきものが映るのだが、走る車のなかから撮影された沿道にはおびただしい星条旗が灰色のなかで雨に濡れながら弱々しくはためいている。この映画の主人公はクリス・カイルではなく星条旗である。カウボーイから転身し、イラクで160人以上を射殺した一人の英雄は帰国するたびに心を蝕まれていくのだが、最後は自殺ではなく他殺であったように、アメリカ人としての矜持は最後まで失われていない。カイルの妻はシールズの夫をもつ不安から、国のために尽くすことの無意味さを罵り、自信喪失したカイルの弟は兄に軽蔑の視線をおくり、戦場の仲間は次々と死んでいくのだが、カイル自身は最後までアメリカのために心身を捧げる。戦場では相手が敵と見なされば、女性や子どもであろうとも一撃しなければならない。本国で夫を待つ愛する妻や息子、娘をもつ身分からして、その非情さと理不尽さに葛藤するカイルの姿は、無力感に打ちひしがれる一個人の小さな存在ではあるが、敵のスナイパーを執拗に追いかけ、復讐を果たすカイルの姿はアメリカそのものであり、また映画そのものでもある(正義感とエンターテインメント)。アメリカというシステムは一地方の小さな社会のなかのカウボーイからグローバルに活動するシールズへとカイルのテリトリーを拡大移動させつつ、カイルの精神を支配し続ける。映画の序盤から中盤にかけて描かれるカイルの自伝的ストーリーは、西部劇映画から戦争映画へとシフトしていくアメリカ映画史と重なり、カウボーイの役(マカロニウェスタンではあるが)でデビューしたイーストウッド監督のフィルモグラフィーをなぞるような感覚が生じる。イーストウッドが映画のなかで描く人物像は複雑な感情が理解しがたいレベルにまで引き上げられるのだが、アメリカというバックグラウンドなしではこの不可解さは起こりえない(「許されざる者」のウィリアム・マニー、「ミスティック・リバー」のジミー・マーカム)。戦場に派遣されるごとに、カイルの心理状態は分裂化に向かい、本国から遠く離れたアメリカによってつくられた自縄自縛の地獄のなかでアメリカの綻びを見せつけられはするが、イーストウッドはカイルを一人間としての中心(根源)ではなく、あくまでもアメリカ人としての中心を意識とも無意識ともいえない視線で描かざるをえなくなる。だが、その視線は完膚なきまで透徹さをつらぬいている。シールズの伝説的人物は星条旗の象徴イメージとして空虚な彼方へ往く。アメリカの歪みはとてつもなく巨大であり、世界を支配し世界とともに内部崩壊するしか、アメリカという中心から解放はされないのだ。クリント・イーストウッドの映画をみるということはこういうことなのだと思う。だが、砂嵐のシーンは映画のなかで飛び抜けて異空間であった。その間にアメリカを意識することは少しもなかった。
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