「ハドソン川の奇跡」

一夜にして英雄となったサリーはハドソン川に不時着水したその夜に悪夢を見る。ハドソン川ではなくマンハッタンの高層ビル群に機首が衝突し炎上するところでサリーはガバっと起きる。悪夢を取っ払うために真夜中にジョギングした先には戦闘機が停まっている。サリーが空軍基地に勤務していた過去へと回顧する起点となり、その流れは映画的導線を正確にたどっているように見えるのだが、映画のストーリーや実話的エピソードのレールから密かに脱線し、滑らかに連続する表象の水面下で理解不可能な何かであり得体のしれない次元に向かっていく。その次元の中心には空洞があり、その奥のほうにはアメリカ人の集合的記憶となってしまった〈 9.11 〉の象徴的イメージが存在している。それを証するようにそのシーンのあとにもサリーが幻覚を起こす時に現れる、高層ビル群に飛行機が衝突する光景がスクリーンに繰り返し表象されている(燃え上がる光景がサリーの横のガラス面にさりげなく反映する不気味さ)。映画内論理を逸脱せずにごく自然に不可解な印象を与えてしまうのはアメリカ(ハリウッド)という空間からなのか、それともイーストウッドによる撮り方からくるのかはわからない。夢と幻覚によって現れた、起こりえたかもしれない最悪の事態のイメージは人間がもつ不安という名の感情から引き起こされたものであり、映画の虚構的空間によって視線の内外や様々な角度から視覚化されていく。だが、事故調査委員会公聴会で提出するコンピューターのシミュレーションは夢と幻覚と同じ仮構の次元にあるにもかかわらず、別の異次元のものとしかいいようのない、人間に脅威を与える異質のイメージとして出現する。無機質なシミュレーションはサリーの判断を否定するように空港への引き返しだけを執拗に繰り返す。そのシミュレーションを淡々と実行する雇われたプロ操縦士の無表情には人間が創ったコンピューターに人間が支配されるという滑稽なようでいて滑稽でもない、疎外された労働者の新しい姿が見えてくる。イーストウッドは夢と幻覚とシミュレーションの3つの異なる虚構的イメージをひとつの物語のなかで並列し反復するのだが、人間の無意識の領域から生ずる夢と幻覚とコンピューターのシミュレーションの差異が消滅しかねないところまでいこうとしているかのようであり、それは映画的空間だからこそ積極的に行われたことなのかもしれない。精確なデータ解析から生まれるシミュレーションに対して、サリーと副操縦士のジェフは人間的判断の優位性とユーモアの情味をもって勝利を手に入れることになる。だが、それは一時的なものでしかないのであり、人間は一時的なものに希望を託すしかこの先を生きる方法はないことをイーストウッドは表沙汰にはしていない。
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