トーマス・ルフ/近代風景

東京国立近代美術館で1Fの「トーマス・ルフ展」と2F(ギャラリー4)の奈良美智セレクションの「近代風景」展を観る(常設展も毎回見るのだが、今回は用事の為断念)。トーマス・ルフの作品の大半は他者が撮影したものである。自身が撮影した作品はこの展示会のなかでいえば、初期の「ポートレート」「ハウス」「室内」シリーズ、中期の「夜」「I.m.v.d.r.」シリーズ、最近の「フォトグラム」(構成作品なので自身の撮影によるものなのかはわからない)シリーズくらい。これだけ並べれば自身撮影の作品もわりとあるように見えるが、他者の写真、画像を借用(流用)した作品のシリーズはこの倍以上の数が展示されている。ほぼ制作年の順にならってシリーズごとに分類されている。ひとつのシリーズにキャプションが付いているのだが、どのコンセプトも非常に明快ですんなりと入ってくる。タイポロジーの手法で世界的に知られているベッヒャー派のひとりでもあるトーマス・ルフは、時代とともに目まぐるしく移り変わる写真のメディアそのものにピタッと伴走している感じである。インターネット時代の氾濫する写真イメージに囲まれている現代人にとって、写真の表層にある表象イメージと内部にある写真の構造が同時的かつ同質的に現れるトーマス・ルフの作品はリアリティを超えた親密さを感じることができるのかもしれない。その親密さというのは人間存在的なそれではなく、イメージそのものに向かう冷却された親密さである。写真と社会の非実体的な関係が現代人の感覚にフィットする。イメージや画像の加工処理や表現方法はシリーズごとに変えているが、作品のフォーマットはほとんどCプリントである。他に紙にシルクスクリーンとキャンヴァスにインクジェットプリントがあるが、表面のコーティングの質感は同じであり、見た目や作品形態はほとんど変わらない。他者の写真を流用し、様々な画像の特性を抽出し、最新の加工技術を使っていても、最終的にはフラットな表層に収斂している。そこにトーマス・ルフの写真家としての存在というか、写真と長く向き合ってきた者としての矜持があるのかもしれない(例外的な作品として3Dの「ma.r.s」と鏡を使った「ステレオフォト」があるけれど)。写真のメディアはこの先、さらに他ジャンルとの境界を超越し融合していくかもしれないが、トーマス・ルフのCプリントに統一された光景には平面関係のなかで視ることの対峙性を可能にする支持体への根本的な信頼があり、そこにかろうじてマテリアルな印象が残されている。「トーマス・ルフ展」の後に観た奈良美智セレクションの「近代風景」展のなかで、麻生三郎の《子ども》や村山槐多の《バラと少女》の暗い色調で描かれた重厚な絵画作品を目の当たりにした時に、写真と絵画の表象イメージのギャップが発生することは僕のなかで想定していたが、結局はそうならなかった。表象イメージの異質性より矩形の作品形態(プリントとキャンヴァス)の共通性が平面的持続を可能にし、平面的イメージを通して、世界の多様性、過去と現在(と未来)の連続性を見る者に与えてくれるのである。「近代風景」展では奈良美智の作品コメントが作品に付いているのだが、自己感覚から生ずる文学的なコメントが「トーマス・ルフ展」のキャプションの明快な説明文と対照的になっていて面白い。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/thomasruff/