/ライカートのまなざし/ 『ファースト・カウ』&『ショーイング・アップ』 ケリー・ライカート

 ケリー・ライカートの映画には、他者へのまなざしが丁重に注がれている印象をいつも受ける。現実の日常生活の中で、誰もが意識的にしろ無意識的にしろ様々な他者に視線を注いたり、一瞥したりするように、ライカートの映画の登場人物たちもストーリーに則った流れの中で自然なふるまいのひとつとして他者に視線を向けている。だが、そうした視線にはささやかなディテールでありながらも、ストーリーの流れに収斂することに抗うような、人間としての根源的なエッセンスがひっそりとだが確実に内在し、それに気づいた者だけがその繊細な視線とともに後に続くストーリーをなぞっていける、そのようにライカートから観る者は試されているのかもしれない。『ファースト・カウ』の序盤でクッキーとキング・ルーは森の中で互いに暗闇に包まれた不明瞭な存在として初対面している。月明りに照らされたわずかな輪郭を手掛かりにしながら、目の前の得体のしれない存在を認識しようとする。恐怖と不安の中であやふやな輪郭を確かめようとする視線が幸運にも衝突のない会話に接続し、徐々に他者に心を開いていく2人の関係の移りゆきが長めのシーンに収められている。わずかな光線によって照らされたおぼろげな輪郭が、もぞもぞ動くだけの物理的制限がかかった画面の表層をスクリーンのこちら側にいる観る者たちも凝視することによって、クッキー(あるいはキング・ルー)の視線を擬態的に経験することになる。見えるか見えないかのぎりぎりの状態における視線は一瞬でも揺ぎが生ずれば、破綻してしまう(見えなくなってしまう)ような性質を有している。そのような繊細な視線の交差はクッキーとキング・ルーの2人の関係性に全て置き換えることができる。キング・ルーが東洋系の人物であることより、裸体であることの窮地状態にだけ反応するクッキーの視線は、市場でバケツを持って歩く少女への純真無垢なまなざしやミルクを無断で頂かせることになる牛への優しいささやきに連結している。『ショーイング・アップ』で見せるリジーの他者へのまなざしは、クッキーのまなざしとどこか重なる部分を有しているが、もう少し複雑な性質のまなざしになっている。クッキーの周辺にいる人物たちとは違って、リジーの視線を受ける人物たちはアートカレッジを中心においた日常生活や家庭での生い立ちといったローカルな空間と長い時間の中でリジーと深く関わっている。リジーの居住兼アトリエの隣に住むジョーが空き地でブランコ作りをしている間、リジーは壁の辺りでしばらく眺めている。ジョーの自由奔放で自分勝手な行動に悩んでいることが後になって知らされていくのだが、そのような状況を事前に予感させるようなリジーの複雑なまなざしがそのシーンに表れている。バラバラになったリジーの家族の一人ひとりに対してもジョーに対するのと同じ類いのまなざしを向けている。そのような周辺にいる人物たちへのリジーのまなざしは、いざこざやうんざりな出来事、そして煩わしい人間関係の地平で漂流しているのだが、決して負の感情に全面降伏することなく(放棄することなく)、それぞれのつながりをかろうじて維持しようとする視線として存在している。リジーはどちらかというとネガティブな感情を抱え込んでいる印象が終始つきまとっているのだが、少なくとも諦念や投げやりに簡単に転じない彼女の強靭な意志のスタイルは、自分が制作している陶器人形への集中的なまなざしから形成されている。へんてこな人形の様々な姿はすべてがリジーの等身大の姿でもあり、人形の瞳からまなざしを投げ返されてもいる。他者へのまなざしは両義的であり、自己へのまなざしへと反転していく。リジーにまなざしを向けているのはもちろん人形だけではなく、日々の生活の中でリジーとかかわる様々な人たちであり、その中でも特にジョーからのまなざしは、同世代・同性の創造表現者同士、日常生活を半ば共有する隣人同士としての特別な関係性のうえで成り立っている。リジーがジョーのインスタレーションに心を揺さぶられる代わりに、ジョーもリジーの人形に素直なまなざしを注いでいる(リジーの父までが忘我するように人形に魅入っているのだが、そのまなざしや表情はリジーやジョーのそれと同じくらいに素晴らしい)。だからと言って、クッキーやリジーが若い身でありながらも優しい心や強い意志を持った尊い存在としての人物のみになっているわけではない。クッキーはキング・ルーと牛のミルクを盗む共犯に勤しんでいるし、リジーは飼い猫に傷付けられた瀕死状態の鳩を窓の外に捨てて「別のところで死んでくれ」みたいなことを呟く。クッキーやリジー、あるいはライカートの他の映画に登場する人物たちは、世間が求める道徳的正しさとは無縁に自分の生き方を精いっぱい通しているだけのように見える。そのような自分の生き方と違う生き方を持つ他者たちにまなざしを向ける。つまり自分の生き方をそのまま通しはするが、他者たちと無関係に生きることもできないというようなアンビバレントな感覚がライカート映画における他者へのまなざしの核心になっているように私は思う。トランプ氏が出現した現代のアメリカ社会(イコール世界)の中で、そのような他者に密やかに開かれるしなやかな感性や繊細な感覚が少数になりつつあることに、ライカートは危機感を抱きながら映画を撮り続けているのかもしれない。