牛腸茂雄

所用で六本木に行ったら、東京ミッドタウン1FのFUJIFILM SQUAREで牛腸茂雄の写真展をやっていたので、迷わず寄ってみた。牛腸は生前中に3冊の写真集を自費出版で刊行している。3冊のうちの《日々》、《SELF AND OTHERS》の一部と、カメラ雑誌『日本カメラ』で発表した《幼年の「時間」》の一部の写真が一枚の壁だけに収まって展示されている。何回見ても牛腸の写真には戦慄を覚える。目の前に出現する事象をたんに眺めるだけのような醒めた印象のある静謐な画面から、当時の写真界ではコンポラ(コンテンポラリー・フォトグラファーズ)の写真家のひとりとしてみなされていた。人物や焦点の背景や余白的な空間が画面の大半を占める作品の一点一点を見れば、写真家と被写体の距離を置いた関係、1970年代前後の空虚感からくる一歩引いた身振りを画面越しに感じ取れるかもしれない。だが、牛腸はカメラを武器に社会や共同体のなかでたったひとりで果たし合いに臨んでいた。牛腸の写真の人物は、カメラのこちら側や写真を見る者に向かって微動だにせず、真っすぐに見つめている。立ち位置を決められ、写真家の言うとおりに不自由にそこに居させられているのだが、視線のまなざしだけは強固な意思をもって写真家を追いつめている。その視線や表情はその人しか持ち得ない唯一無二なものだが、被写体と牛腸の関係性によって微妙に異なってくる。家族の者と全くの他者を両極に置いてそのあいだをグラデーションさながらに視線や表情が移り変わっているのだが、子どもの視線だけは両極の端から端までを自由自在に駆け回っている。《SELF AND OTHERS》の象徴にもなっている双子の少女(鋭い視線)の年齢辺りから他者としての視線が形成されていくのだが、子どもの視線は他者以前の意識されていないたんなる視線、たんなる興味をもったままこちらに向けている。子どもだけは対等に向き合えたのだ。被写体の視線によって共同体のなかの異分子としての写真家の位置が写真の表象に浮き上がってくるのだが、自己と他者の過酷な関係を生死のギリギリまで続けた牛腸の精神は写真の画面上では驚くほどに透徹さを漂わせている。
「ものを見るという行為は、たいへん醒めた行為のように思われます。しかし醒めるという状態には、とても熱い熱い過程があると思うのです。」牛腸茂雄
http://fujifilmsquare.jp/detail/16100104.html