「井上実展」

コンクリートアスファルトに埋め尽くされた街のはずれにかろうじて残されている自然のなかでひっそりと茂る雑草を散歩の途中で撮影する。その撮影された画面のアングルこそが制作プロセスのなかで作家の主体性が最大に発揮される行為の形跡となっている。撮影する時は瞬時的なことだけれど、カメラを構えるときに作家の頭のなかで構図が意識的に決められていく。無意識的なようでいてシャッターを切る時に意識的行為が瞬時的に出現する(画像の選択という意識的行為もある)。キャンバスに合わせて拡大された画像に写っている草木の全ての輪郭を忠実に描き起こし、そこに薄く溶かれた油絵具で色をのせていくのだが(かすかに漂う油絵具の匂いが何故か強く印象に残る)、画面全部に色が埋め尽くされるわけではない。ひとつの平面的秩序のなかで均等に配分されているようにも見える大小の余白のまわりでほぼ同じサイズのタッチが密集するように連なっている(その様相は囲碁に似ていなくもない)。絵具そのものをのせるような重厚なタッチではなく、小刻みな運動を反復する透明でなめらかなタッチが繰り広げられている。だが、忠実に描かれたディテールに合わせるかのように透明なタッチも自ら輪郭や形をはみ出そうとはしない。あくまでも正確に写し取られた草や葉や枝木の形のなかで収まっている。非主体的に画面を埋め尽くす作業は自然に拘束されているようでもあるが、撮影の時に決定されたイメージの構図があることでかろうじて絵画的行為を主体的にコントロールしている(ポロックはキャンバスの四方形によってアクションペインティングをコントロールしている)。それはメタレベルの主体性ともいえるが、あくまでもキャンバスに現れる表象との関係でしかないのであり、作品の前で抽象と具象の差異が無意味化されていくように作家の主体と非主体の区分も次第に消失していく。ギャラリーには10点以上の作品が展示されてあり、キャンバスのサイズはF10号からF120号までの幅にわたっているのだが、キャンバスのサイズによってタッチの質が異なっている。サイズが大きくなればタッチも自然と大きくなる。画像をキャンバスに拡大転写し描写する方法にはこのような画面の密度にかんする感覚の問題にどうしてもぶつかってしまうのだが、ギャラリー内を回っているうちにタッチの違いに対する感覚のひっかかりがいつの間にかに消えている。イメージを形成するタッチではなく、タッチを重ねていく行為そのものがタブローとともに立ち現れてくる。イメージの密度を超えた身体と行為(運動)の強度が差し出されているのと同時に作家自身の存在が無くなっていくような事態に遭遇しているのかもしれない。絵を描く行為があって、その他に作家があるという関係ではなく、絵を描く行為という現実だけがある。抽象的な「私(作家)」の介入する余地をなくすことにひたすら向かっていく。そういう意味では井上は真正の実践主義的な作家(画家)なのではないかと思う。
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