二人展のパンフレット

【テキスト1】
 オブジェクトとイメージがそこにある。オブジェクトが先にあるのか、それともイメージが先にあるのか。実体的なものと非実体的なものを分け隔てすることなく全てをひっくるめて視覚そのものだけを経験することから創造行為が始まる。リュミエール兄弟が撮影現場でファインダー越しに覗いた風景とスクリーンに投影された風景は同じ運動イメージであっても同じではない。スクリーンのイメージはオブジェクトそのものが表層的に切り取られた、たんに視覚表象として動いているだけである。リュミエール兄弟は音声トラックのないフィルムであるがゆえに、そのギャップと不可解さを抱えながらオブジェクトとイメージのあいだを行き来していたのかもしれない。ギャップを有することなく、視覚を主体とした身体感覚でのみ、オブジェクトとイメージのあいまいな関係を捉えるとするならば、どのような世界が出現するのだろうか。オブジェクトとイメージはどちらかによって覆われているのか、それとも互いがぶつかりあっているのか。異なる領域の界面にはノイズが発生する。2人の作家によるコラボではあるが、それぞれの作品がオブジェクトとイメージのあいだで解体され、作家の固有性が前面化されるまえに別次元の異質な何者かがノイズをともなって生まれてくるはずだ。そのノイズはマテリアルの接触不良によるのか、混沌としたイメージによるのかは全くもってわからない。
【テキスト2
 キャンヴァスに絵具をのせるときの“ぬめっ”としたなまめかしい感触。近年は軽減されたとはいえ、画面から漂う“むむっ”とする特有の油匂い。制作途中の作品を持ったはずみにキャンヴァスの端に塗ってある絵具が手についてしまったときの“しまった…”という煩わしさ。個人で表現できるメディア環境が豊富になった現在、アナクロなメディアである油絵具に手こずりながら扱うときの身体感覚というのがあるのだけれど、世の中のめまぐるしさ(高速化する資本主義)に戸惑うときの身体感覚との落差が最近はエスカレートしているような気がする。一枚のキャンヴァスの前で僕の脳内はイメージだけが壊れた蛇口から出つづける無味無臭の水のようにどこまでも溢れている。もはや自分だけのイメージは持ち得ず、イメージそのものが相対化し、肥大化し、イメージの破壊と再生が延々と繰り返されている。記憶(個人から集合まで)さえあやふやなものとなりつつあるが、油絵具の“ぬめっ”、“むむっ”、“しまった…”という身体感覚が僕と世界の存在的関係をかろうじてつないでいる。メランコリーな世の中、イメージと戯れることにいささかうんざりしているが、この先どうすればいいか思いあぐねているところでもある(イメージの「表象」から「表層」へ意識を移行してみること)。