ルーシェイとフロイド

東京ステーションギャラリーへ「12 Room 12 Artists」を見に行く。ルシアン・フロイドエド・ルーシェイ(以前は「ルシェ」となっていたのだが)が目的だ。二人とも日本ではまとまった展示がなかなか無くて、しかも同一展示という奇跡に近い組み合わせだからこれは絶対見に行くべきだろうと。個人事だが、僕の絵画スタイルの変移に多かれ少なかれ二人の影響が絡んでいる。以前はコンビニエンスストアやガソリンスタンドといったインスタントな建物を全体から細部までマスキングテープを使って無機質的に描いていたのだが、それはほとんどルーシェイの影響によるものだった。ルーシェイはアメリカのポップアートの作家とみなされることもあるが、ポップアートの他の作家が通俗的なイメージを明るいまま維持しどこか人間臭さを残しているのにたいして、ルーシェイはクールさをもって通俗性と人間性から逸脱しようとしているところがある。初期のスケッチから、代表作ともいえるスタンドシリーズの版画作品やモノクロームのシルエット作品までが複数展示されていて、ポップアートコンセプチュアルアートの両義性の豊かさをフラットな画面から再び感じ取ることができる。キャンヴァスのうえでマスキングテープを切り貼りする作業から離れていった僕はアクリルから油彩へと絵具を変え、油絵具の可塑性を意識するようになる。絵画のイメージや平面性に絵具の物質性の意識が加わるようになったのは、荒々しいマチエールを剥き出しにしたまま裸体の人物を描くようになったルシアン・フロイドの後期作品を知ってからである。今回の展示で初めてフロイドの油彩作品を見るまでは写真でしか拝見することができなかったが、それでもフロイドのマチエールの強度は写真の表層を突き破って僕に衝撃を与えた。だから今回の東京ステーションギャラリーでの展示には超が付くくらい過剰な期待を抱いて見に行ったのだが、フロイドの油彩作品は人物の顔(と少しだけの肩)を描いたあまり大きくはない一点のみだった。ルーシェイとフロイドは他の作家より広いスペースの空間での展示になっていたが、そのほとんどはリトグラフエッチングの小品であり、見応えのある作品はわずかであった(UBSコレクションは3000点近くあるらしいが、複製作品ばかりになった出品選択は我が国の現代美術の後進国たるゆえんなのか)。それでも生の作品を見れるという感情が勝っていて、たった一点の油彩作品を隅々から舐めるようにじっくり鑑賞する(幸い他の観客は少なかった)。《裸の少女の頭部》と題された作品のモチーフはひとりの少女であるのだが、全然少女には見えない。頭部のそれぞれの骨格が皮膚や肉の下に隠れているはずなのに、絵具の物質性とともにその存在を剥き出しにしている。だが、その剥き出しにされた骨格や絵具の固有性は同時に表立ってこないという二律背反性が画面全体を覆っていて、トリックや写実的絵画とは全く別のところにある人間的としかいいようのない内面的な感覚がある。髪の毛も艶のある滑らかなものであるはずなのに、その性質を無視するかのようにゴツゴツ描かれている。だけどそのストロークは少女の頭から生える唯一無二の髪の毛をまぎれもなく表わしている。絵具の物質性をモチーフである人物の人体に同化し、描く側と描かれる側のふたつの感情が捏ねくり回されるようにしてひとつの平面的イメージが現れてくる。絵具の荒々しいマチエールはモデルとフロイドが真っ向から対峙した生の痕跡でもあるのだ。ルーシェイのイメージに対する感覚はイメージそのものに収斂していくが、フロイドは生身の人間をイメージの枠に収めきれずに絵具とともにイメージの外へはみ出していく(長い年月をかけて)。展示のほとんどを占めていたルーシェイのリトグラフ、フロイドのエッチングの版画作品はイメージと物質の相対性から離れて、作家自身のイメージにたいする行為自体と平面的感覚が同質をもって具現化(表面化)している。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201607_12rooms.html