『 枯れ葉 』: アキ・カウリスマキ

 アキ・カウリスマキ監督の最新作『枯れ葉』が興収1億円を突破し、日本上映で過去最大のヒット作となったとのニュースと、現在も多くの劇場でロングラン上映が続いている現象を目の当たりにしていると、我が耳を疑ったり、多少の戸惑いを隠しきれなかったりしてしまう(カウリスマキの映画がニュースになったこと自体もなんか変な感じがしたものだ)。個人的、あまりにも個人的なその微妙な感情には、学生時代から蓄積してきたカルトでマイナーな映画への密かな愛と、混迷をきわめ、殺伐とした現代社会の中の微かな希望が入り混じっているような気がする。二十代の時に『マッチ工場の少女』、『真夜中の虹』、『パラダイスの夕暮れ』を初めて観た時の衝撃はいまだに鮮明に思い出すことができる。固定ショットに映る登場人物の寡黙な表情と抑制された演技、ストーリーやディテールに対するあっけない省略(それでいてストーリーの時制操作は基本現在進行形で通し、シンプルな結末にたどり着く)等の映画手法に却って新鮮さを覚え、それから新作上映、特集があるたびに欠かさずに観てきた。しかし、それ以上に社会からはみ出され、都市の片隅で孤独に生きる労働者の登場人物たちに一定の距離を置くかのような、一見冷徹にも見える撮影スタイルから滲み出る、孤独者の無垢な精神に無条件に寄り添うカウリスマキの独特な眼差し(とぼけたユーモアも含めて)に共振し勇気づけられたことが一番大きかった。先述した二十代の時に見た3本の初期作品は労働者3部作としてカウリスマキフィルモグラフィーの中で括られているのだが、『枯れ葉』は30年以上ぶりにその系譜に連ね、日々の生活を精一杯生きる労働者たちへの讃歌と連帯感を再び繰り返している。『枯れ葉』の作品内に描かれる映画表現の一つひとつから映画全体のトーンに至るまで、初期の作品(から中期、最近まで)とほとんど同じ印象であることはマンネリの循環に陥っているどころか、むしろ進化への追求を否定する潔い態度、あるいはひとつの揺るぎない思想が大仰さや過剰さとは無縁な画面を貫通してしている。新自由主義グローバリズムの領域に突入した資本主義の進歩信仰と無限の欲望に逆らうことが道義的に正しいとでも言わんばかりのラディカルさを長年にわたって維持することが、カウリスマキにとっての使命感になっているように感じさえする。だが、不変のスタイルの中にも以前には見られなかったと思しきディテールが出現している。登場人物の横でロシアの軍事侵攻によるウクライナ情勢のニュースが流れる場面が一度に限らず何度も出てくる。フィクションの中において、現実的事象の反復性に拘泥するその意図には、表現形式や心情的効果とは無関係な、世界情勢と日常生活が時事ニュースを通して繋がっているアクチュアリティをそのままストレートに出すことの即物性以外には何も見当たらない。ウクライナの過酷な現実とヘルシンキの底辺労働者同士の恋愛が同時進行していく。これはある意味、映画の奇跡であり、表現の極北をさらりとカウリスマキが成し遂げているといってもいいような、(カウリスマキ自身の)臨界を超えた到達点を感じないわけにはいかなかったのである。つまり、肉付けしたり、捻ってみたりするなど、より映画的にする必然性が消滅し、現実に起きている出来事をそのままフィクション世界に置いたというそれだけの強度と純度を持ったシンプルな表象がむしろ感動的でさえある。ラジオから流れる音声情報が画面を横切るといった小道具的パターンは、古今東西の映画作品において昔から繰り返されてきたオーソドックスな映画手法であり、最近観た映画の中では、米大統領選のブッシュ氏(息子の方)勝利とリベラルへの失望がカーラジオから延々と流れる、ケリー・ライカートの『オールド・ジョイ』のワンシーンが強く印象に残っている。しかしながら、ろう者である僕にとっては『枯れ葉』にしても『オールド・ジョイ』にしても、音声を通してラジオの言葉(異言語としてではなく音声言語としての)を聞いているのではなく、字幕の文字によってそれらを受け止めている。ストーリーの中に生起する音声の持つ普遍性を想像しながら「字幕の文字」というエクリチュールとしての言語記号関係そのものだけを視覚的に追っていくといったろう者の特性をともないながらも、映画の「同時性」に全幅の信頼を持って、自身の感性(感情)や思考を委ねることができる映画体験はこれまでにも限られている(ろう者が映画を撮るならば、カウリスマキやライカートとは違った「同時性」の映画表現を模索しなければならないだろう)。音声に対する想像力は画面に映る視覚表象(事物の存在性やうごめき等)に何かを感じなければ始まらない。カラオケバーで唐突に出現する、姉妹からなる二人組の歌手、マウステテュトットの無表情に歌う姿はとても印象に残っている(やはり、レニングラードカウボーイズと同じ匂いや佇まいを感じる)。