ろう者の視線とはなにぞや

ポレポレ東中野で「ゆずり葉」を観る。ろう者の監督による邦画の商業映画上映は、9年前の米内山/大澤共同監督の「アイ・ラブ・ユー」以来、2度目となる。その9年の間、ろう者による映像製作の市民権が漸次的に高まり、着実に進化しつつある。「ゆずり葉」もその結実のあらわれのひとつとしてメジャーに躍り出たといえるだろう。しかも、製作総指揮をとるのは、全日本ろうあ連盟という、ろう社会の先端に立つ巨大組織団体だ。一人のろう者監督と巨大ろう団体のコラボレーションがどのようなろう者の映画を創っていくのか、上映以前からずっと気になっていた。ふたを開けてみると、「ゆずり葉」は「アイ・ラブ・ユー」をはるか凌ぐ出来映えとなる映画的表層を獲得していた。カメラワークのうまさ、巧みなストーリー構成、役者による人物配置に対する細かい配慮など、どれをとっても聴者の監督による他の商業映画にひけをとらない一定のレベルに達している。「ゆずり葉」を観ていると、確実にろう者による映画製作の進化が身にしみて感じられて、とても喜ばしい限りだ。だが、映画のなかで描かれるろう者の生き方や世界観、随所に出てくる画面に対する違和感を拭いきれない事実があったことも正直に告白せねばならない。

ろう社会では障害者への資格制限の差別撤廃などによるろうあ運動を繰り広げてきた歴史があり、そのおかげで現在のろう者は運転免許や薬剤師の資格などを手に入れることができるようになる。そういった重みのあるろう者の歴史を肩肘を張らずに、画面の随所にさらりと、しかし確かな要点として挿入しながらろう者の日常生活、内面の葛藤描写に力点を置いた監督のストーリーテラーとしての才能には目を見張るものがある。しかしその反面、そういったストーリー構成もこれまでに聴者が映画で描いてきた表現とあまり差が感じられない。つまりろう者からの視線なのか、聴者からの視線なのか、映画外部からのメタ視線が曖昧な感じなのだ。むしろ、ろう者から聴者側に歩み寄る傾向すら感じられてしまう。それは、ろう者、難聴者、あるいは生い立ちにおける言語環境の相違など、それぞれが様々なコミュニケーション方法を持ち、細分化されていく現在の聴覚障害者の複雑な状況からくるのかもしれない。だが、視覚的行動と聴覚的行動という根源的なろう者と聴者の差異を映画に導入することによって、時には聴者をつきはなすくらいに、徹底したろう者の視線を映画に入れてもよかったのではないか。それによって、ろう者にしか表現できない強烈な特有性をもった映画が生れるのではないかと私は思うのだ。この映画に描かれる感動的なシーンも、凡庸な聴者監督の視線から次々と出現してくる画一化された価値観のひとつにすぎない。この映画では、マイノリティが持つ苦悩も抵抗もろう者と聴者が歩み寄っていくろう社会の制度化によって、すべてが予定調和という袋小路に入ってしまう。 

ろう者の監督が撮ったこの映画でとても残念でならなかったのは、この映画が手話よりも字幕を優先してしまったことだ。例えば、上半身で二人が向き合うシーンを同一画面に収める時(例えばプロポーズや父子の会話シーン)、カメラに向かっている人物が手話で話しているのに、その大半が背中を向けている人物に遮断されてしまっているのだ。プロポーズの時、「結婚してくれ!」という重要な台詞が出てくるにも関わらずその手話は見えてこなかったのである。プールの場面では、準主人公である吾郎と彼の彼女の妹が立ちながらターニングポイントとなる会話をするにもかかわらず、2人の人物はロングショットで遠くに小さくなったまま、しかも逆光で暗くなっている。それらの場面は、幸い字幕で会話の内容をスムーズに知らされることになるが、ろう者の視線からは大きくかけ離れてしまっている。このような画面構成はスタンダードな映画文法として広く流通されているが、あくまでも音声による聴者からの視線でしかないのだ。字幕を否定しているのではなく、ろう者が撮る映画にもかかわらず、ろう文化の要である手話という視覚的表現が無意識的に過小評価されてしまっていることが問題なのだと思う。ろう者の映画である「ゆずり葉」では、たくさんのろう者が出てきているが、ろう者である監督自身の存在はこの映画では見えてこないのである。ろう者が映画(特に商業映画として)を撮るということは、我々が思っている以上にとても困難なことなのかもしれない。