「音楽」そのものがわからない僕にとって、映画のなかでろう者が「音楽」を語れば語るほど、「音楽」がますますわからなくなっていく。だが、この映画に現れる「音楽」は言葉や概念としての「音楽」、音声ありきとしての「音楽」ではなく、視覚的に行動するろう者の手と身体から発現されるエモーション的な何かである。「音楽のようなもの」のほうがろう者の僕にとってはしっくりくる。僕は昔、大学の友人の影響でロックにはまった時期があり、ライブにも何回か行き、MVや音楽映画もたくさん見てきた。このような体験はいうまでもなく音自体、表現媒体としての音楽と向き合うというよりは、音楽をとりまく文化、ミュージシャンの生き方への興味、ファッションとしての感覚、身体的に言えば僕の周りが引き起こすグルーブ感に浸る感じであった。つまり僕の学生時代の音楽体験というのは音楽を形づくっている様々な表象や形式を外側からなぞっていく想像の世界であり、イメージだけの空洞的体験でしかなかった(それはそれで十分楽しかったけど)。だが、この映画ではろう者自身が主体になり視覚的空間のなかで「音楽」を再構築していく、それぞれの音楽的行為(音楽のようなもの)が能動的に繰り広げられている。ここでいう音楽的行為というのは音を出すことではなく手を中心とした身体の動きであり、ダンス、舞踏、手話詩などといった類の身体表現に置換している。手話詩は完全にろう者の世界であるが(*)、手話の言語的記号から離れる(あるいは離れていこうとする)ダンスや舞踏をおこなう場合は、ろう者と聴者といった区別は曖昧なものとなり、身分(立場)が不可視の状態のまま、踊る身体だけが現前する。ろう者による「音楽」の再構築は、表現媒体としての形式ではなく、音を中心にして考えられてきた「音楽」の概念を覆そうとするパラダイムの転換である。それとも「音楽」の拡張ともいうべきか。だが、「音楽」という言葉や概念を扱う限り、どこまでいってもろう者は「音楽」という見えない(聴こえない)制度から解放されない。それは身体についても同じようなことが言える。音を聴くことができないろう者の身体ではあるが、音楽教育を抑圧的に受けてきた身体、補聴器をつけてしまった身体、音楽のある環境から影響を受け続ける身体といった様々な身体がダンスや舞踏の背後に見え隠れしている。聴者は音を聴覚的に扱うだけではなく視覚的にも扱っている。聴者にとって音の視覚化とは音の記憶から生まれるイメージである。ろう者が「音楽」をどう視覚化するかというのは実は不可能なことであり、「音楽」を想像することしかできない(「音楽」に接近することは出来るかもしれないが)。ろう者の「音楽」に対する視覚的イメージは聴者が視覚化してきた「音楽(音)」を二次的にインプットされたものでもある。「音楽のようなもの(音楽的イメージ)」と戯れざるをえない身体にろう者自身の内なるリズムが反動し、外部的なものと内部的なものが複雑に絡み合っている。音声中心の社会に翻弄され続ける社会的存在と感覚器官のひとつが欠落したまま世界を知覚する身体的条件のなかで、内側から「音楽的なもの」を探ろうとするろう者の踊り手は、「手と身体(肉体)」と「手話とろう者としての身体」のあいだを行き来しながら、エモーション的あるいはコンポジション的にろう者自身の視覚的表現を生み出していく。だが、ラスト近くで黄昏(夜明け?)の浜辺で踊り続ける横尾の身体はろう者と聴者、ろう者と音楽、視覚的なものと音楽的なものの関係性をはるかに超えてしまっている。様々な感覚や感情が混沌したまま、自身の感性をひとつひとつ形(不確かなものとして)にしていく横尾の動作はろう者の身体性を突き抜けている。横尾をロングショットでとらえる画面ではこれまでに映画のなかで表れていたろう者の視線による視覚的空間が無効化され、踊り続けるひとりの人間の身体がたんに映っている。それを見つめる眼差しもフレームをはみ出していく。名付けようもない情動に動かされながら不安定に踊り続ける横尾の身体は弱い存在ではあるけれど、否定されるような弱さではなく、弱さそのものをさらけだす強い存在なのだ。無音状態ではあるが、自ら音を発する身体として風を切る音、砂を踏む音、服の襞が擦れ合う音が聴こえてくるようだ(記憶ではなく想像として)。様々な思考や感情をもちつつ、たったひとりになったときに身体は全てを無条件に受け入れる。「音楽」を受け入れつつ、どこまでもついてくる「音楽」から逃走し続けよう。粋がる必要はない。我々ろう者は弱い者のまま逃げるのだ。
* 米内山の「四季」やろう夫婦のデュエットのCL的表現は、言語学的視点から見れば言語をベースにしているように見えるかもしれないが、芸術的視点から見る場合、言語と非言語のどちらにベースをおいて表現されているのか判断しかねるところがあるように思う。だが、どちらにも言えることはストーリー性があるということだ。
・6月2日(木)、19:10の回の上映後、トークショーに出ます。
http://www.uplink.co.jp/movie/2016/43252