「ザ・トライブ」

テオ・アンゲロプロスレオス・カラックスを足して2で割ったような映画というのが率直な印象だ。ロングショットによるワンシーンワンショット(長廻し)で登場人物の動きを固定画面で捉えたり、移動撮影でゆっくり追いかけるのだが、登場人物はマシンガンのように繰り出される手話を差し引いてもあふれんばかりの激情さをもって描かれている。「この映画の手話は言語である。字幕も吹き替えも存在しない。」という二律背反的なフレーズから始まる、ウクライナ映画「ザ・トライブ」には二つの倫理観を見出すことができる。ひとつは時代が変わっても、表面に顕在化していようがしていまいが、社会の大小にかかわらず、世の中は弱肉強食が世界の摂理として機能していることのリアリズムである。冷酷非道さ(表面的には)をもって、ろう学校という周縁的な社会単位を徹底的に分解し、あるいは変形する。リアリズムの最たる描写にダウン症者の登場があげられるだろう(重複障害者を受け入れるろう学校は多い)。ろう者の共同体のなかのさらなる少数者も例外なしに権力関係のなかにひとつの駒として置かれている。一方、この映画に描かれるろう学校は多少デフォルメされているふしがあり、校長を筆頭に登場する教師をろう者(流暢な手話はどうみてもろう者にしかみえない)に設定し、ろう学校から聴者を徹底的に排除することによって、マイナーな手話を共通言語として使うろう者の共同体を強固なものにしている。ろう学校の外側でも、主人公に道案内をする以外は無関心な通行者、業務を淡々と進めるパスポートの職員とその通訳者、そしてろう者の娼婦を買う(買わされる)長距離トラック運転手のようにエキストラレベルの聴者しかでてこない。この映画はろう者の世界を外部から疎外された世界として描写している。だが、小さな世界を徹底的に閉じることによって、この孤立性を自立(自律)的世界へと転化している。もうひとつは聴者である監督の立ち位置である。部屋や廊下など狭い空間で登場人物のスピーディな動作に対処しきれずカメラとの距離が近くなることはあっても、バストショットを越える画面はほとんどでてこない。バストショットもそんなに多くはなく、全編にわたってミディアムショットからロングショットが画面を支配している。ミディアムショットの先に入っていかないのは、視覚言語である手話と躍動感あふれる身体的行動を画面全体におさめるということもあるが、聴者はろう者にとっては外側の者であり、自身の映画製作現場でさえろう者のテリトリーに簡単に足を踏み入れたりすることはできないことを監督は認識しているのである。おそらく監督は役者に用意された大体の台詞を従わせてはいるが、撮影現場ではウクライナ手話の大半を読み取れないまま撮ったのであろう。手話はカメラの前で可視的に動くものとして現れるのであり、バストショットやクローズアップに手話が映ると言語としての意味や手話自体の存在が強くなってしまう。長期間の映画製作のなかで監督とろう者たちは深交を結んだかもしれないが、聴者とろう者はあくまでも異なった言語を使う他者同士(コミュニティー、社会的立場の相違として)にすぎないことを理解していることが画面を通して伝わってくる(字幕を入れないのもその一環である)。聴者がろう者を撮る時は、ミディアムショットからロングショットが正しい距離間なのであり、その距離間をもって監督はろう者のエモーショナルな進展を凝視し続ける。魂の交流はあってもシビアな態度をもって、引き気味のロングショットを主要なカメラワークに採用した結果、強度な倫理観、本質的な眼差しをもった映画表現が独自性をもって現前している。この映画の登場人物と同じろう者である僕だが、無字幕のなかでウクライナ手話をわからないまま観ることによって、ろう者という存在を気にすることなく画面に入っていくことができたのである。しばらくしてこの映画の内容を思い出してみると、何故か登場人物同士の会話は手話ではなく音声(視覚現象として)で交わされている印象があいまいなまま浮上してくる。映画の登場人物がろう者でもなく聴者でもなく現代に生きる人間(若者)そのものの表象になったことはまぎれもないが、ろう者である僕の記憶に音声の会話の光景が現れてしまったことは、マジョリティのなかにおけるマイノリティの分裂的身体が顕現したということなのかもしれない。ウクライナのろう者の自立(自律)的世界を見るろう者の主体が複数になっているという倒錯した感覚に僕はただ立ち尽くすしかない。
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