『ジ・エンド』

 ろう学校のあるクラスにて、4人のろう児がインタビューに受け答えすることからこの映画は始まる。4人のうち、アーロンだけが映画の最後までインタビューを受けることになり、アーロンの1987年から2046年までの人生に焦点が当てられている。過去から未来(こちら側にとっての)にわたって事あるごとに登場人物にインタビューが施される奇妙な風体は、モキュメンタリーという表現手法の一種から来ている。モキュメンタリーとは、フィクションを元にして「ドキュメンタリー風」に仕上げる撮影手法であり、最近の映像作品にはよく使われている。実話を元にしてストーリーを練り上げ、少なくとも作り手の痕跡が残るような感じでフイクションの形式に落とす。その反対の事をやろうとするのがモキュメンタリーということになるかもしれないが、それはあくまでも表層における日常感覚と地続きしたリアリティの次元であり、実際は計算の内に設定が組まれた完全なるフイクションである(ドキュメンタリーも結局はフイクションに行き着く)。インタビューとはナラティブに進行する映画のタブーであるカメラ目線を積極的に導入する形式である。モキュメンタリーにおけるインタビューは語る主体によって映画の内部と外部を横断する感覚をもたらしている。

 細胞学を応用した医療テクノロジーの出現によって、ろうの人々は次々と耳が聞こえる聴者に変えられてしまう。アーロンの彼女であるソフィアの父がその治療の発明者である設定は、電話を発明したグラハム・ベルの母と妻がろう者であり、また、父がろう者に発音を教えるろう教育者であった歴史的事実を思い起こさせる。ろう者は音声言語というマジョリティの共通言語を与えられなかった存在として、社会の中で治療や救済に値する人物であることが前提されていることは、ろう者の言語=手話の認知が広がりつつある現在でも根源のところでは昔と何ら変わっていない。現実の世界では、言うまでもなく人工内耳に当てはまり、ろう社会に計り知れない脅威を与えているはずの静かな事実を目の当たりにしている身としては、この映画に描かれる世界とはまた違ったリアルな感情を持たざるを得ない。ろう防衛省の運動員の道を選んだアーロンと「ろう者の世界は狭い」と語るルークのろう者アイデンティティへの温度差というのも、ろう社会のリアルな一面としてある。だが、ろう者の消滅というカタストロフィに対する共感覚的なものは映画と現実を横断して通底している。ろう者がインタビューを受けるシーンの多用は、映画のスタイルの維持という意味以上にフィクションに描かれるろう者の暗澹たる未来が、現実のろう社会に生きる者が漠然と持つ危機感や不安の感覚から予兆されていることにつながる表現の因果関係ともいえる。インタビューシーンの中心には言葉を話す人物が存在し、ろう者の消滅というテーマのなかで、手話を使うろう者の身体性にフィーチャーされるのである(モハメドだけは音声言語を貫いている)。しかし、1987年から2046年まで継続するインタビューをしているのは誰なのかという疑問が浮上してくる。モキュメンタリーはフィクションの一形式であることは先に述べているが、フィクションのなかでインタビュアーが顕在化しないままインタビューそのものだけが過去から未来まで行われる様相は、不気味ですらある。インタビュアーの不在は、ラストの「私はろう者だ」の謎めいた不可解な表象へと到達点を極める。ギャラリーの壁面に掛けられた映像の不毛さは、ろう者はそもそも不在だったという究極の未来を暗示しているのかもしれない。

Zoom Focus: The End :: BSL Zone(再生ボタンを押した後、画面右下の「cc」を押して「日本語」を選んで下さい。)