ことづけが見えない (イベント)

ぎゅう詰めされた狭いホワイトスペースの非日常空間を出たあと、熱をおびた複雑な感情が血液の流れとともに僕の知覚全体のなかでぐるぐるまわっている。自由と不自由の対極をなすふたつの感覚が交錯してもいる。複雑な感情というのは、やはり当事者としての感情だ。マイノリティとしての感情でもある。マイノリティは当事者性がいやがおうでも高感度に受信されてしまう。絵画や写真は媒体の個別性や単一な平面性によって成り立つ度合いが高いので、マイノリティや固有性といった作家の特殊な立場を不可視なものにすることはできる。だが、聴者と耳が聞こえない者(ろう者でもあり難聴者でもある)が言葉をメインにして生身をお互いにぶっつけあう光景ではその人そのもの全てが生々しく現前する。演劇と同質の磁場が繰り広げられている。百瀬がパソコンで文字(日本語)をすらすら打つのにたいして、斉藤はスムーズに文字(文)を打てなくて四苦八苦している。その様子を目の当たりにして僕も痛いほどよくわかる。個人差による面もあるけど、ろう者(主に手話使用者)は手話という話し言葉から日本語という書き言葉に変換する時にエネルギーがとても要るのではないかと思う。手話(日本手話)と日本語は似て非なるものだけど、別々の言語であり手話(日本手話)は書き言葉をもたない。ろう者はある意味バイリンガルなのである。聴者の話し言葉から書き言葉への変換は日本語という同じベースの上でスムーズ(全てではないが)に行われる。聴者とろう者のあいだには、コミュニケーション手段の違いだけではなく、思考回路や行動様式の違いも生じる。文化の違いというのともちょっと異なる。だが、斉藤はそのような2つの世界の違いに関心を向けるそぶりはなく、ただひたすらありのままの自分自身を百瀬や観客にさらけ出す。キーボードによる文字打ち、紙とペンによる筆談、自身からの発声や身振り、しまいには手話まで持ち出してあらゆるコミュニケーション手段を手品のように次々と披露する。だが、プロマジシャンのようにはいかずフリーズが多発してしまう(パソコンも含めて)。フリーズしたときの沈黙やお互いに相手の言うことがわからないときのぎこちなさが発生する空間は両者の肉体がその場に同時にあることの均衡状態(新しい空間)へと転化していく。だが、その同じ地平という希望はほどなく消滅し、言葉にできない感覚そのものだけが残骸として空間を漂う。それは日常空間での誰もがもつ、どこにもつながらない不確かな感覚でもあるのだ。冒頭に複雑な感情と書いたのは、僕がろう社会に(なかば)足をかけている立場から出たものであり、ろう者の言語である手話(日本手話)に言語的価値を見出しているからである(手話教師でもあるので)。言語的価値は共同体のなかで成立する言語的位置(言語ゲームに参加できるための共通コード)につながっていくが、この非日常空間ではそれぞれの言語の表面が剥がれたさきに言語的本質が出現する。非秩序的であり非合理的なピジン的世界に惹かれながらも多少戸惑ってしまう自分もいる。だが、そこには人間が肉体になる瞬間、聴者とろう者という二分化、内在的論理を破壊するスリリングな空間がまぎれもなくあった。同じろう者からみても斉藤はイノセンスな存在だ。

百瀬の作品「the Examination」を見ているあいだ、何故か小津の映画を思い出し、笠智衆原節子のショットが僕の頭のなかでオーバーラップしてしまった。ラストの百瀬本人のちらっとしたカメラ目線がどうしても気になってしまう。スクリーン越しに見ている僕の心が見透かされたような気分だ。

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