『夢の男』 KAAT 神奈川芸術劇場

 KAAT神奈川芸術劇場企画製作の短編映像作品『夢の男』をYouTubeで見る。全4幕構成になっているのだが、4幕すべて同じストーリーが繰り返されている。1幕は聴者の俳優(大石将弘)とろう者の俳優(江副悟史)が2人並んで立っている。聴者は音声、ろう者は手話で夢の男について同時に語っている。語り終えた直後の2人の表情が微妙に異なっている。聴者は戸惑いの余韻を残しているが、ろう者は無表情のままフェードアウトする。2幕はろう者1人が白いマスクを被って1幕とは打って変わってCL全開で上半身全体を使って表現している。1幕は手話言語、2幕は視覚言語と一応分けることはできるが、それはあくまで表層的なものであって、ろう者にとっては1幕と2幕を区別する認識はあまりないのではないかという気はする。おそらく江副はそのことを分かった上で白いマスクを被ることによって顔に表れる文法的な動き(NM)を隠蔽し、観る者の視線を身体表現そのものに誘導している。それでもろう者は1幕と2幕が地続きしている感覚から逃れることはなかなか難しいだろう。3幕は聴者1人が椅子に座って、声による言葉を発しないでテーブルの上にある様々な小道具を使ってカメラに向かって懸命に伝えている。2幕と3幕は手話と音声を省いた視覚言語としての語りを導入しているが、2幕と3幕の順序で見ていくと、同じ視覚言語でも2幕の身体表現と3幕の小道具や書記日本語とともに表現されるジェスチャーの間には大きな差異が横たわっている。つまり、ろう者の手話は初めから視覚言語なのであり、2幕では視覚言語の領域が(演劇的に)拡張している。非言語的な領域が拡大しているが、2幕の身体表現には言語的ルールが内包されたままになっている。それに対して3幕では聴者の言語自体が音声言語と視覚言語に分断されているため、大石は小道具や書記日本語あるいは映像を借りざるをえなくなり、ジェスチャーもちぐはぐなまま非連続的に表現するしかなくなる。しかし、その無秩序な状況にあえて(聴者が)身を置くことによってノイズのエネルギーが炸裂している。2幕の時、終盤に江副が大笑いをしなかったことと3幕では大笑いが忠実に行われたことの相違点はノイズの有無、ノイズとの繋がりに関係があるのかもしれない。そして最後の4幕では、3幕までのと同じストーリーであることに変わりはないのだが、プロセスや小道具の持つ機能や意味が逸脱し、作品内で漸次的に進行する抽象性がクライマックスを迎える。3幕までは、2人の俳優はろう者と聴者という属性に身を置いて固定ショットの中で演じていたのだが、4幕では三脚から離れて移動撮影を自由に行うカメラワークの中で2人が様々な小道具や空間全体を使ってお互いの属性を越えた協働関係をつくっている。その中心には聴者とろう者の共有コードである視覚言語が生成されているのだが、視覚言語は身体感覚的なものや空間感覚的なものを引き寄せ、やがて言語的なものは薄れていく。協働し同じ体験を共有する2人に撮影者も含めて同一空間に共存しているのだが、言葉を発しない空間でほんのわずかだけれど微妙な食い違いがやはりどこかに発生し、その発生地点には聴者の視覚言語とろう者の視覚言語のズレ、聴者とろう者の異なる身体感覚と観る者に擬似体験を促す映像感覚のズレが錯綜するように潜在している。身体的に体感するという演劇的手法に則ったワンカットの撮影が終始行われる中で、別次元の感覚が生じる場面がある。大石が椅子に座ってテーブル上の小道具と戯れる3幕の場面を後ろから覗いたつもりが、それは鏡に映ったものであり(フィクションのイメージ)、カメラのパンによって4幕の中で行われていること(現実のイメージ)をすぐさまに認識させるくだりである。カメラの死角を利用した時空間のタイムスリップは体感の次元を越えて、虚構と現実を横断するような映像感覚をもたらしている。聴者とろう者という属性が異なった俳優同士が演劇と映像のはざまで手話と音声から視覚言語、視覚言語から身体言語、身体言語から映像言語へと移り変わり、属性や表現媒体の境目が曖昧になっていく様相は、まさに身体はあるのに身体をなくしたと言う夢の男そのものである。

https://www.youtube.com/watch?v=lFcPKp45oxE